太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。
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10代の頃から「織田信長」に仕え、持ち前の武勇を発揮し、頭角を現した「佐々成政」(さっさなりまさ)は、「黒母衣衆」(くろほろしゅう:織田信長の親衛隊)の筆頭として数々の戦場で戦功を挙げた人物です。特に鉄砲への造詣は深く、「織田家」の鉄砲部隊は、佐々成政によって鍛え上げられたと言っても過言ではありません。
やがて重臣「柴田勝家」の与力(よりき:侍大将や足軽大将に付属した騎馬の武士)となり、越中国(現在の富山県)の大名にまで出世を果たしますが、「本能寺の変」をきっかけに状況が暗転。「豊臣秀吉」と敵対し、やがて領地のほとんどを没収されてしまうのです。戦いに明け暮れた佐々成政の生涯について、数々の逸話や伝説と共に振り返り、剛胆かつ実直な人物像をご紹介します。
佐々成政の生い立ち
佐々成政の出自
佐々家の家紋

隅立て四つ目
佐々家の家紋は、「隅立て四つ目」(すみたてよつめ)と称される意匠。「目結」と呼ばれる染色技法によって生じる染め模様を図案化した家紋です。
その美しさから、染色技術が向上した鎌倉時代以降に、多くの武士が用いるようになりました。
「絞って結ぶ」という意味も込められており、一族の団結も表現しているとも言われています。
人の話を聞く素直な性格
城主の子である佐々成政は、上級武士ならではの環境で育てられました。元服前から学者「千田吟風」(ちだぎんぷう)を呼び寄せ、学問や兵法を学んでいたのです。
しかし、勉強が嫌いだった佐々成政は、毎日遊んでばかり。その様子を見かねた千田吟風は、あるとき佐々成政に対して、古今の武将達の言行や武功を学ぶ大切さを丁寧に諭しました。勉強したくない佐々成政は、「昔の話など、本当のことかどうか疑わしい」と反論。すると、師・千田吟風から思わぬことを問われます。
「昔の名将達の言行は疑うのに、自分が勉強をせず遊んでいることには疑問を抱かないのですか」この言葉にハッとした佐々成政は、自分の屁理屈を恥じ、以後反省して学問に打ち込むようになったのです。
織田信長への仕官
黒母衣衆の筆頭へ

織田信長
織田信長に仕えた佐々成政は、馬廻(うままわり:大将の馬の周りで護衛や伝令を行なう親衛隊)に抜擢されると、早々に武勇を発揮。織田信長の弟「織田信勝」(別名「織田信行」[おだのぶかつ])を攻めた「稲生の戦い」(いのうのたたかい)に出陣し、敵将を討ち取る活躍を見せました。
また、「桶狭間の戦い」での佐々成政は、おとり部隊に配置され目立った働きはできませんでしたが、織田信長が美濃国(現在の岐阜県南部)侵攻を開始すると、1561年(永禄4年)の「十四条・軽海の戦い」(じゅうよんじょう・かるみのたたかい)で奮起。「池田恒興」(いけだつねおき)と一緒になって、敵将「稲葉又右衛門」(いなばまたえもん)を討ち取り、その名を織田家中に知らしめたのです。
戦歴を挙げていくと、織田信長の期待に応え続けたお手本のような武将にも見えますが、苛烈な人物像が見え隠れする逸話もあります。
「信長公記」(しんちょうこうき)によれば、仕官前の佐々成政は、織田信長を殺害する計画を立てていたと伝えられているのです。その具体的な方法は、比良城近くの池に、大蛇が出没する噂を聞いて訪れた織田信長を、小船に誘って殺す手筈でした。
計画は未遂に終わりましたが、佐々成政は、最初から忠義の士だったわけではなく、仕官前後から織田信長に惹かれ、徐々に忠義心が構築されていったことが分かります。
やがて織田信長が、「稲葉山城の戦い」で「斎藤龍興」(さいとうたつおき)を下し、悲願の美濃国平定を成し遂げた頃、佐々成政に、新たな名誉が与えられました。馬廻の中でも特に精鋭のみを集めた母衣衆結成にあたり、「黒母衣衆」の筆頭に任じられたのです。
母衣衆出身者には、のちに大名となる武将も多く含まれており、言わば織田家中の出世コース。ちなみに、「黒母衣衆」と対になる「赤母衣衆」(あかほろしゅう)の筆頭は、「前田利家」が務めています。
鉄砲への造詣は織田家随一

足利義輝
織田信長は早くから鉄砲に目を付け、戦場での活用を模索していました。そのきっかけとなったのは1559年(永禄2年)、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に拝謁するため、佐々成政らを連れて、隠密で上洛したときのことです。
摂州・堺(現在の大阪府堺市)に立ち寄った織田信長一行は、町衆らと鉄砲談義を交わすうち、兵器として使えることを確信。織田信長は帰国後、本格的に鉄砲隊の編成を模索します。このとき、中心になって計画を推し進めたのが佐々成政でした。
鉄砲の産地だった近江国の国友村(くにともむら:現在の滋賀県長浜市)を訪ね、鍛冶職人との交渉から材料の調達、製造技術の把握まで、その一切を任されます。まず、200余丁の火縄銃を揃えた佐々成政は、自ら隊長となって鉄砲隊を組織。修練を重ねて狙撃技術を向上させ、合戦でも徐々に戦果を挙げ始めます。
1564年(永禄7年)、「織田信清」(おだのぶきよ)が守る「犬山城」(現在の愛知県犬山市)を攻略した際は、佐々成政率いる鉄砲隊が大活躍を見せ、内外に勇名を轟かせました。
また鉄砲の活用法においても、佐々成政は画期的な戦法を考案。1列目の兵が発射する間に、2列目の兵が銃弾を装填する「二段撃ち」を編み出したのです。
織田信長最大の危機とも言われる「金ヶ崎の戦い」(かねがさきのたたかい)では、「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の軍勢を食い止めるべく、殿(しんがり:最後尾で敵の追撃を防ぐこと)を務めた木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)を、二段撃ちで援護。辛うじて、苦境を脱することに成功しました。
なお1575年(天正3年)に、甲斐国(現在の山梨県)の武田軍と織田・徳川連合軍が衝突した「長篠の戦い」(ながしののたたかい)では、「武田勝頼」(たけだかつより)が率いる騎馬隊が、佐々成政が指揮した鉄砲隊によって粉砕。このときに用いられた「三段撃ち」は、前述の二段撃ちを進化させた戦法だと言われています。
柴田勝家のもとで奮戦
北陸地方の平定に尽力

柴田勝家
1575年(天正3年)に、越前国(現在の福井県北東部)の朝倉義景を滅ぼした織田信長は、北陸方面の総司令官に、筆頭家老の柴田勝家を任命します。
その与力を務めたのが佐々成政と前田利家、「不破光治」(ふわみつはる)の3名。いわゆる「府中三人衆」です。そして佐々成政は、「小丸城」(現在の福井県越前市)を築き、約33,000石の城主となります。
またこの頃の佐々成政は、北陸に限らず畿内の戦線にもたびたび出陣しており、「石山本願寺」との「石山合戦」(いしやまかっせん)や、織田家の重臣「荒木村重」(あらきむらしげ)が、反旗を翻した「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)にも加勢。佐々成政は、独立した戦力を持つ遊軍のような立場でした。
北陸戦線でも北上を進めていた佐々成政は、能登国(現在の石川県北部)へ攻め込んでいた越後国(現在の新潟県)の名将「上杉謙信」の軍勢と、やがて加賀国(現在の石川県南部)で対峙することになります。これが、いわゆる「手取川の戦い」(てどりがわのたたかい)です。
柴田勝家軍の一員として参陣した佐々成政でしたが、雨により自慢の鉄砲隊が活かせず、織田軍は総崩れ。上杉軍に大敗を喫します。
しかし、その直後に上杉謙信が病死すると、再び織田軍が勢力を拡大。約90年間に亘り、一向宗の門徒達が治めていた加賀国を平定し、能登国や越中国へと進出していくのです。
さらに佐々成政は、「富山城」(現在の富山県富山市)に入ると、「瑞泉寺の戦い」(ずいせんじのたたかい)で一向宗勢を蹴散らして領土を確保。1582年(天正10年)には、上杉謙信の跡を継いだ「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)配下の「魚津城」(うおづじょう:現在の富山県魚津市)を攻略。越中国から、「上杉家」の勢力を排除することに成功したのでした。
領国経営でも手腕を発揮
越中国の統治にあたった佐々成政は、内政面においても見事な手腕を発揮。まずは、たびたび氾濫を起こしていた「常願寺川」(じょうがんじがわ)に着目し、長さ約150m、幅約140mにも及ぶ堤防を1年がかりで築き上げます。
「佐々堤」(さっさてい)と呼ばれるこの堤防は、佐々成政自らが陣頭指揮を執り、人海戦術工法によって巨石を集めて完成させました。その遺構は、現在も富山市内に残っています。
また佐々成政は、1586年1月18日(天正13年11月29日)に中部地方で発生した「天正大地震」(てんしょうおおじしん)では、大坂に滞在していたにもかかわらず、被害状況の把握のため越中国へ急行。領内の「木舟城」(きふねじょう:現在の富山県高岡市)などが倒壊する被害に遭いましたが、いち早く復旧活動に着手します。
佐々成政が被災地を見て回った際には、「何事も 変わり果てたる 世の中に 知らでや雪の 白く降るらん」と悲痛な胸のうちを歌に詠み(和歌が詠まれた時期は諸説あり)、領内安泰を祈願して、「芦峅寺」(あしくらじ)の「姥堂」(うばどう:現在の富山県立山町)の建立を命じたのでした。佐々成政が、献身的な領国経営を心がけていたことが分かります。
豊臣秀吉との対立
柴田勝家と共に豊臣秀吉に対抗

豊臣秀吉
「本能寺の変」により、主君・織田信長が横死したことで、豊臣秀吉と柴田勝家の対立が深まると、佐々成政は、寄親(よりおや:親子に見立てた主従関係のうち、主君に当たる人物)である柴田勝家に与しました。
しかし、豊臣秀吉と柴田勝家が雌雄を決した「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)において、柴田方は、わずか600人の兵を出すのが精一杯。そんな中で佐々成政は、越後国の上杉景勝の侵攻により、富山城を離れることができなかったのです。
豊臣秀吉に敗れた柴田勝家が、居城の「北の庄城」(きたのしょうじょう:現在の福井県福井市)で自刃すると、佐々成政は不本意ながら豊臣秀吉に臣従。そして佐々成政は、娘を「豊臣家」へ人質に出すことで、越中国の所領を安堵されました。
しかしこのとき、佐々成政はひとつの条件を提示します。それは、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)を主君に立てること。豊臣秀吉にではなく、あくまで織田家に臣従する形を取ったのです。
決死の「さらさら越え」

徳川家康
ところが1584年(天正12年)、豊臣秀吉は、佐々成政との約束を反故にして、織田信雄と対立。これに「徳川家康」も呼応し、豊臣軍と織田・徳川連合軍の戦いである「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)が始まります。
織田家に同調した佐々成政は、豊臣秀吉に反旗を翻すと、豊臣側に付いた前田利家の支城「末森城」(すえもりじょう:現在の石川県宝達志水町)を攻撃します。落城寸前まで迫りますが、前田利家の援軍が到着し、攻略に失敗。以後、佐々成政は、前田利家との熾烈な攻防戦を繰り広げることになるのです。
そんな折、戦いを優勢に進めていたはずの織田信雄と徳川家康が、豊臣秀吉と和睦を結んだという情報がもたらされました。これにより、越中国で孤立状態に陥った佐々成政は、前代未聞の行動を開始。真冬の立山連峰を越えて、「浜松城」(現在の静岡県浜松市)にいた徳川家康に会いに行き、豊臣秀吉との和睦を撤回するように説得を試みたのです。
現在でも真冬の立山連峰登山は極めて危険だとされていますが、佐々成政は、「弓矢や銃弾が飛び交う戦場よりは行軍しやすい」と家臣達を鼓舞し、数名の家臣を失いながらも、立山連峰を見事踏破。伝説の「さらさら越え」を成し遂げたのでした。
しかし、徳川家康との会談は上手くいきません。佐々成政は、「我々が協力するのは、武田信玄と上杉謙信が手を結ぶに等しい」と力説しますが、それを聞いた徳川家の家臣に、「徳川家と豊臣家は対等の立場にある。豊臣家の家臣が徳川家康公と同等であるように語るのはおかしい」と指摘され、交渉は失敗。さらには織田信雄や、織田信長の家臣であった「滝川一益」(たきがわいちます/たきがわかずます)のもとにも足を運びますが、合意には至らず、失意のまま再び雪山を越えて、越中国に戻ったのでした。
1585年(天正13年)、ついに豊臣秀吉が、約100,000人の兵を引き連れて富山城を包囲すると、佐々成政は、ほぼ戦うことなく降伏。こうして佐々成政は、ごく一部を除き、越中国の所領を失ってしまうのです。
束の間の復活と悲劇の最期
大坂に移住した佐々成政は、1587年(天正15年)の「九州征伐」に出陣して戦功を挙げ、肥後国(現在の熊本県)の大名に返り咲きます。しかし着任早々、同国における国人らの反乱「肥後国人一揆」を抑えきれず、1年足らずで改易。その責任を問われ、豊臣秀吉から切腹を命じられてしまいます。
佐々成政の辞世の句は、「この頃の 厄妄想を入れ置きし 鉄鉢袋 今破るなり」。近頃の災いに対して思うところはあるけれども、それを心の中に押し込めたまま、今から死に赴くといった意味です。佐々成政の無念の思いが窺えます。
一本気な性格が分かる佐々成政の逸話
織田信長に正面から諫言した男

浅井長政
1574年(天正2年)に織田信長が、近江国の「浅井長政」(あざいながまさ)と越前国の朝倉義景を滅ぼした際、正月の酒宴で両者の薄濃(はくだみ:頭蓋骨を漆で固め、彩色を施した杯)が、酒の肴として披露されました。
これに対し、唯一異議を唱えたのが佐々成政。中国の歴史書「後漢書」を引用しつつ、「人の道に外れるようなことをしていては、天下を治めることはできない」と苦言を呈したのです。
その後、織田信長は、佐々成政を別室へ呼んで政治について語り合い、褒美を与えたと言います。一本気な佐々成政らしい逸話です。
短気を起こして無実の側室を処刑
「さらさら越え」から帰国した佐々成政は、側室の「小百合」(さゆり)が、留守中に小姓と浮気していたという噂を耳にしました。
確認するため小百合の屋敷へ向かうと、戸口に小姓の所持品である小袋を発見。激怒した佐々成政は、問答無用で小百合と小姓を成敗します。しかしこれは、佐々成政から寵愛を受けていた小百合に嫉妬した別の側室による、ねつ造であったことがあとから判明。これには佐々成政も、後悔の念に苛まれたと伝えられています。
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