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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

 

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

ドラゴンフルーツ

2006/12/24

インド政府は1991年の経済開放政策の際に、輸入政策をポジティブリストからネガティブリストに変更した。ネガティブリストと言うのは、以下の品目は輸入許可をとりなさい、もしくは輸入禁止ですと、記載している。以前は、ポジティブリストで、以下の品目は輸入が出来ますので、輸入許可を申請してくださいの、スタイルであった。そのリストは膨大で、該当品目を探すのが大変であった。今は数品目が輸入禁止または輸入ー許可必要となっているだけで、時代が変わったの感がある。

ポジティブからネガティブへの変更は大幅な輸入の自由化であった。果物は勿論ネガティブリストには入っていない。であるから、マーケットがあればあらゆる果物が輸入されることになった。果物の選択は輸入業者のセンスの問題になった。

カルフォルニァの葡萄とか、タイのメロンとか、アメリカの林檎だとか、色々輸入されている。贅沢になったものである。

デ、ドラゴンフルーツも輸入されている。カーンマーケットで購入して、今年もお世話になった大和屋に持ち込み早速皆で試食した。熱帯の果物にしては涼しい味の果物であった。見た目が、面白く、味も日本人好みのあっさり味で、館長のこのみであった。

外側は、ショッキングピンクで、中は黒ゴマを振ったような白身の果肉であった。文献によると赤みの果肉もあるとか。

2006/12/4

INAの果物屋の店頭である。

中央にデンと構えているのが、柿である。店主はカキといって薦める。渋柿であるから、渋抜きをする必要がある。

左端は、ビノード君である。鼻の下にうっすらと髭が・・社会見学のためにニューデリーに館長の買い物のお供をさせたのである・・
仏頭果

2006/9/10

釈迦の頭のブツブツ(螺髪:らほつ)に似た表皮から、釈迦頭、仏頭果と日本語で呼ばれる。英語でカスタードアップルがこれに当たるのであろう。

ビノード君によるとサリファーと言うらしい。事務所で、聞いてみると知らない人が半分で、サリーム君も知らなかった。正しくは、シャリファーである。館長はヒンディー語の辞書で調べた。

野球のボール大の実は簡単に割れ、いぼいぼの下は、多くの小さな黒い種の周りにカスタードクリーム状の甘い熱帯を思わす香りの果肉が、豊かについている。以外に食べやすい。種は西瓜の種より一寸大きいくらいなので、口をモゴモゴさせて後でホキ出せばよい。
これに、味が似たものに、中南米に多いチェリモアと言う果物がある。一度バンガロールで食べたが、北では見かけない。角々の板状の果皮で囲まれた形が、ウドゥンアップルと言う英語になるのであろう。(残念ながら写真がない。)

インド語ではこの二つをシタプル、ラムプルとか洒落て呼ぶ人がいる。神話のラーマとその妻のシーターの名前を果物(果物のことをヒンディー語でプルと言う)に使ったわけである。

仏頭果は今が旬であるが、館長はウドゥンアップルのほうが美味しかった気がする。
熟れた仏頭果は両手で簡単に割ることが出来る・・ 今、まさに割ったところである・・黒い種の周りにクリーム状の実が房を成して、それがいくつも集まったものが全体となるわけで・・
今日の熟れ具合は食べごろで、美味しくいただきました・・
アフガンメロン

2006/7/26

今年から、日本政府の大英断と言うか、両首脳会談の成果といおうか、小さなことだが、インド産マンゴーの日本への輸入が解禁された。今まで、約20年以上にわたり、三井物産、ニチメン、三菱商事等の商社が苦労と努力を重ねたが上手くいかなかった懸案事項であった。

日本向けの第一号を扱ったのが伊藤忠であったと言う。何はともあれ、おめでたいことではある。ただ今年のアルホンソの盛りを過ぎたところでの第一号であったので、どの種類のマンゴーを輸入したのだろうか、その評判、反応を聞いていないので一寸心配でもある。

今は、東部インドのラングラーと言う種類のマンゴーがシーズン最後を飾っている。もうマンゴーのシーズンは終わりである。

日曜日にINAマーケットで、アフガンマンゴーを見かけたので、大英断で買ってきた。(アフガンとはアフガニスタンのこと。)まだ走りの値段でキロ100ルピー(250円)である。大振りのものは一個8キロから10キロするので、買うのに大英断となるわけである。館長は60ルピー(150円)まで値切って買った。

マンゴーが熱い果物にと分類すれば、このメロンは涼しい果物に分類される。歯ざわりはサクサクで、ジューシーで密度が高く、甘みが強いが上品で、瓜の香りだが癖がなくとても旨い。マンゴーのいかにも熱帯と言う濃密な味の後に、爽やかな清涼感をかもし出す。日本の果物でこの手の物は思いつかない。

マーケットでは、産地はアフガニスタンと言うが、疑問がある。アフガン戦争が勃発したとき、丁度シーズン真っ只中であったが、マーケットでの値段は一切動かず店によりキロ60ルピー(150円)~80ルピー(200円)であった。おそらくインドの北のほうの何処かか、パキスタン辺りからのものであろう。アフガンメロンのシーズンは長く今から11月の始めまでだと記憶する。
続 風船メロン

2006/6/3

風船メロンを前に紹介したが、またまた風船メロンである。

この種類は果肉が、日本の夕張メロンのように赤く、甘みが強い。先に紹介したものは、甘みもさることながら、香りが魅力的であったが、甘みを取るならこっちである。デリーからパンジャブ街道を150キロ北のヤムナ河の水の恩恵を受けたカーナル(Kanal)辺りが産地として有名で、街道にずらっと屋台が並び、盛んに通る車に売りつけている。試し切りを食べて美味しかったので、館長は3キロ買った。キロ10ルピー(25円)であった。

今朝も頂いたが、至福の甘さである
リーチ (Litchi)

2006/5/22

見た目がイチゴ、皮を剥くと葡萄みたいな果肉、味も葡萄的、中の種は枇杷みたいと言った人がいた。

今が北インドのリーチの季節である。日本では、茘枝(レイシ)、ライチと呼ばれるが、いずれもlitchiから来たものであろう。

路上の果物屋が盛んに売るのも、5月から6月にかけての3~4週間の短期間の季節ものの果物である。味はご存知の、竜眼、ランブータン(いずれもインドでは見かけない)に似ている。館長の好きな果物の一つである。

車の乗客に売りつけてくる果物売りと、リーチの写真
追加
今年もリーチの季節が来た・・天候不順で走りのリーチは小粒で甘味が弱かったが、この時期まで続いた・・
最後のロットがジューシーで甘く、大粒で楽しめた・・少ないリーチをいかに多くに見せるかが売り方のコツか?

銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

餓鬼道にもがく館長

2006/11/3

館長は10月15日より2週間休暇をとり日本に滞在した。蕨市、蓼科、名古屋、札幌、釧路、東京と走り回った。
一寸した講演と身体検査等を行い、旧友と再会を楽しんだ。
到着二日目に風邪をひき、帰国までそれを引きずった。抵抗力が落ちたようである。
日本で色々食べたが、印象に残ったものがある。

10月16日(月)19:00上野公園内の「韻松亭」で、ガンガ・サライの会があった。窓を開け放した庭から聞こえるすだく虫の声と、とり料理を満喫した。素晴らしい設定であった。幹事の植村君に感謝!豆腐も見事。鍋の設えが2回出たが感服。質もしっかりしている料理でした。

10月19日(木)18:00 「青山 浅田」で夕食会(港区北青山2-7-13, プラセオ青山ビルB1 5411-0171)加賀料理を満喫した。加賀料理の上品さと、気取らない治部煮等の配慮ある献立に脱帽であった。

10月20日(金)11:00神田駅前のラーメン屋「かやま」で醤油ラーメンを楽しんだ。

10月21日(土)歩絵夢で例のすき焼きを楽しみ、食べ過ぎました。胆石が夜半に動きだしブスコパンのお世話になりました。

10月24日(火)釧路の栄町の「ひょうたん」で魚尽くし。メンメの酒蒸しに感服。イカの一夜干も甘かった。八角の刺身をはじめて食べました。鮭児(ケイジ)の刺身の旨さを実感しました。食べ残しが沢山でました。ほっけの一夜干が・・野菜の煮つけが・・

10月25日(水)小金井の大勝軒でつけ麺。ここではざると言ってますが、何時もの味です・・

10月26日(木)18:00 今ではヨガの先生である友永さんの招待で、新宿御苑前「礼華」で中華をいただきました。町田のご隠居さんも参加。お任せコース料理と言うことでしたが、今まで、館長が食べていたのは、格下の下品な中華であることが分かりました。本当の中華は非常に上品で腹によいものでした。中華の深さを実感しました。ここは名店に入れときましょう。

10月28日(土)11:30 青葉台の「梅の花」で孫達の七五三のお祝いをした。豆腐は身体に優しい。子どもも大人も楽しみました。

10月28日夜は、宏大君とグランドパレスの23階の「千鳥」で、鉄板焼き。安心できるところである。

館長が留守をしている間に、国分寺の広島焼きの店「サンフレチェ」が消えた。又、小金井のカレーの「プーさん」も消えていた。無念である。道路拡張中のための一時休業と言う説も有るとか。
 
友永さんは町田のご隠居さんの弟さんの事務所の隣組にヨガ道場を開いた・・そこで、一緒に飯と言うことになった次第・・縁は重なる・・
普段食べている中華は、食べる本人達が勝手に頼む、田舎料理か、庶民の食べ物であるようだ・・エビチリ、マーボドーフ、酢豚、八宝菜、チャーハン、光麺、皆皆格下のものなのであろう・・中華はそんなに甘い、浅いものではないことが思い知れされる内容でした・・
釧路のひょうたん・・  翌日の昼間撮ったものです・・
賑やかなすき焼きパーティーは歩絵夢です・・
サルダールジー

2008/7/21

大和屋さんからMGロードに出たところに、この店がある。

看板は、ヒンディーで、サルダールジーのスペシャル・ラッシーと書いてあるので、店の名前は「サルダールジー」と言うらしい。

ここのラッシーは15ルピー(38円)で、素焼の入れ物に入っている・・

甘さが丁度よく、酸味も絶妙のバランスで、非常に濃いのに清涼感がある逸品である。あまりに濃いので、ストローではなく、プラスティック製の匙が付いてくる。

ビカネールワラのらしいも良いが、高くて、表面にピスタチオや色もの様な夾雑物が載せてあるのに比べ、純粋なラッシーは見た目の清涼感を誘う・・

特に館長が好きなのは、冷蔵庫に保存してあるので、時として、ラッシーの表面が薄く凍っていることがある、それを口にしたときにに感じた衝撃は、忘れられないので、執拗にその現象を求めて通いつずけている。昼間は凍っていることは少ない。夜遅くは(たとえば館長の趣味である麻雀の帰りの12時だとかは)店が閉まっていたり、売り切れたりして、だめなこともが少なくない。

ほかに、パンジャブ特有のダールとか、カレーも商っているが、まだ他のものは試していない。

ダルダールジーが商売をしているのかと思ったが、店内には、それらしい人は見当たらない。オーナーがシクなのかなと思ったりするが、そんなことはどうでも良いことである。
通常のテラワラのラッシーは10ルピー(25円)なのに比べてこの15ルピーは価値のあるものである。
 
店の看板である・・中央がラッシーの看板で、右が、食べ物の看板である・・
ミルクからダヒーを経て、ラッシーを作るまでの道具を日光消毒しているところであろうか・・
食べ物コーナーもある
冷蔵庫の上に載せられた、素焼のつぼに入れられたラッシーである・・
店で働く少年である・・
素焼のつぼに入れられ、アルミホイルでカバーし、輪ゴムで3止めて、プラスティック製のスプーンをつけて、15ルピー(38円)はリーゾナブルな価格である。この素焼のつぼを店に返しに行った日本人がいたという伝説がある・・このラッシーと、ビノード謹製のカツサンドは非常に合うと評判である・・
館長の悪癖である食べ歩き

2007/4/25

今回の日本での休暇は4月8日から22日であった。

毎年この時期にはどうしても日本へ帰りたい。理由は一つ、筍の旬であるからである。

館長のこの時期の朝飯のメニューを書いてみよう。

筍の炊き込みご飯、筍の煮付けと蕗の炊き合わせ、ままかりの黄金漬け、トマト4分の3、味付け海苔、果物(今回はオレンジとイチゴ)、サラダ、サトイモの煮付け、ハスの煮付け、二度なりの煮付け、こんにゃくの煮付け、おから、などである。全部が出るわけでないが、筍、トマト、ままかり、などは常連である。食後にミルクティー以上である。

筍ご飯は筍以外の具は一切入れない、煮付けはかつぶしなどをまぶす事などもっての外である。ただただ筍を賞味するスタイルである。

記憶する限りの、食べ歩きをここに書き下すことにした・・

9日(月)成田から、有楽町へ直行して、ビックカメラで、カメラを購入し、昼はFCCJで、会食。デザートのアップルパイアラモードが行けました。

夕食は家で筍ご飯。

10日(火)筍ご飯と筍の煮付け等。国分寺を歩き春の花を観賞。

昼食は新橋の大和田のうなぎをいただいた。美味しいうなぎで文句はない。飯が一寸気になった。
鰻割烹「大和田」港区新橋2-8-4
03-3591-6308

夜は、雀荘「邦」のインスタントラーメンであるが、此れが結構行ける。

11日(水)朝食は成田のビュッフェ屋さん。取り立てて言う事も無し。此れなら空弁の方が良かったと反省。

富山の電気ビルでの弁当。講演の前の食事ゆえ、多少残した・・

夕食はうどんをいただいた。「めんぼう壱久」の鴨南蛮です。高井戸の温泉の後のうどんは格別です・・
東京都杉並区浜田山3丁目17-9 電話番号:03-3311-8619

12日(木)朝食は、筍ご飯と筍の煮付け・・
昼食は、京橋の「ざくろ」京橋店で、 「すき焼き」をいただいた・・新宿ルミネの今半がなくなり、一人前すき焼きが食べにくいところ、ここでは、今でも一人前すき焼きを用意してくれる・・しかも旨い・・
東京都中央区京橋1丁目7番1号 TODA BUILDING 地階

徳里会が学士会館で行われた・・いつものスタイルの飯である・・

13日(金)朝食:筍ご飯と筍の煮付け・・

昼は、東京都港区東新橋1-5-2 汐留シティセンターの「えど」で和食弁当をいただいた・・

夕食は、神田の雀荘「桜」のラーメン

14日(土)朝食:筍ご飯と筍の煮付け・・

昼は家族で、あざみ野の「うかい亭」・・子どもの面倒見がよく、個室なので安心して食べられる・・肉は見事で、孫たちも満足・・親達も・・館長も・・
神奈川県横浜市青葉区あざみ野南2-14-3

途中で、巨峰のソフトクリームを中央道の双葉SAでいただいた・・

夕食は蓼科のペンション「歩絵夢」・・

15日(日)朝食は歩絵夢の心づくし・・

昼は、蕎茶寮(きょうさろう)「いけ野」で、手打ちそば・・旨かった・・
長野県茅野市北山5522-445、滝見平
0266-67-5227、火・水定休

夕食はぽえむの「すき焼き」・・

16日(月)朝食:歩絵夢

昼食は、談合坂SAで・・

夕食は築地の「天辰」で、カツオの刺身が旨かった・・

17日(火)朝食:筍ご飯と筍の煮付け・・

昼食は、FCCJ有楽町、ローストビーフ、アップルパイとアイスクリーム

夕食は、尾道ポートプラザホテル・・

18日(水)朝食は、尾道ポートプラザホテル

昼は、リーガロイヤル広島・・

夕食は、ラージマハル(六本木)で、インド料理を堪能・・オーナーマルホトラさんの奢りである・・この店は二度目である・・

19日(木)朝食:筍ご飯と筍の煮付け・・

昼食はKKRホテル、「たけはし」、筍尽くし・・
筍料理の多様性に感心・・

夕食は、邦のラーメン、餃子。ここの取り寄せる餃子が旨いのである・・

20日(金)朝食:筍ご飯と筍の煮付け・・

昼食は「韻松亭」、レオナルドダヴィンチを見た後の「花かご弁当」は、乙なものでした・・
東京都台東区上野公園4-59
03-3821-8126

夕食は、立川伊勢丹の、「堀井更科」・・
3月にインド公演された観世の御家元のお土産が、此処の本店の生そばであった・・

21日(土)朝食:筍ご飯と筍の煮付け・・

昼食は、飯田橋、「高はし」ワンタンメン、さすが9席17年の味であった・・今もウエスタンをかけ続けている・・館長通い続けて15年である・・店主も白髪が・・

夕食はグランドパレス、千鳥の鉄板焼・・
いつもの味で、日本での食い収め・・

22日(日)朝食は、グランドパレスビュッフェ・・

昼食は成田の、「寿司田」サヨリが旨かった・・
社長はニューヨーク出張のときによることがあると・・
 
有楽町の駅前交番の見越しのさくらはまだ少し残っていた・・
成田から、有楽町へ直行して、ビックカメラで、カメラを購入し、昼はFCCJで、会食。デザートのアップルパイアラモードが行けました。
ビックカメラは相変わらずの賑わいでした・・
旨かったので夢中で食べて写真を忘れました・・
雀荘「邦」でメンバーを待つ男・・
富山の電気ビルでの弁当。講演の前の食事ゆえ、多少残した・・
商事時代のなつかしの京橋の「ざくろ」である・・
一人前のすき焼きがありがたいのである・・
山田大使の誕生日である・・徳里会が学士会館で行われた・・いつものスタイルの飯である・・
その集合写真である・・
「えど」で和食弁当をいただいた・・
うかい亭の入り口である・・99の「ごちになります」を見た妻の選択であったが、当たりである。味も、おもてなしの気配りも・・庭も立派である。
孫たちも満足・・コックさんが子どもの質問に全て対応してくれていたのに感心した・・
デザートも手抜きがなく、別室での用意であり選択肢があった・・
夕食は蓼科のペンション「歩絵夢」のサラダ・・
ビーフシチューが良く煮えてました・・
蕎茶寮(きょうさろう)「いけ野」で、手打ちそば・・なかなかのものである・・また来たいとの感想である・・
蓼科の帰り道、電話があり、築地の「天辰」での飯となった・・
FCCJ有楽町で、ローストビーフ、アップルパイとアイスクリームを御馳走となった・・
KKRホテル、「たけはし」、筍尽くしである・・
畳の上に椅子席とは江戸時代みたいで・・
韻松亭では20分くらい待たされた・・待つのも乙な時間と思える場所に韻松亭はある・・雨さえなければ待つのも良い・・
凝った弁当であるが、旨かった・・
飯田橋、「高はし」のワンタンメン、さすが9席17年の味であった・・チャーシューの味も変わらない・・
ラー油は置いてない・・白胡椒と酢だけであるのも好ましい・・ワンタンは生姜が利いている・・
22日(日)朝食は、グランドパレスビュッフェ・・
「寿司田」サヨリが旨かった・・皮を串焼きにしてくれた・・
寿司が最後の成田となった・・寿司は優先度が下と言うことか・・
コリアンダー リーフ グルガオンの名店

2006/5/28
2006/7/2追加

Coriander Leafと言うのが店の名前である。

コリアンダーと言うのは、ご存知のタイではパクチーと呼ばれ、中国では香菜(シャンツァイ)香草の名前である。店の名刺にはかわゆく刷り込んである。
店の雰囲気は100点をあげましょう。料理の美味しさにも100点をあげましょう。値段は、そんなに高くない店です。
お昼のノンベジタリアンのタリを食べました。焼き物2種。タンドリで焼いたマライチキンとマトンのカバブでした。それに、サグマトン(マトンのほうれん草カレー)、ココナッツミルクの効いた魚のカレー、チャナ豆のややドライカレー風、ご飯が緑色の塩加減が絶妙な優れもの、ライターがニンニク風味の食欲増進剤、パパッドがつき、食膳の飲み物が若いマンゴーを加工した胃を適度に刺激する。
デザートはラブリーが出たが、マライタイプのニューデリー風ではあったが(カルカッタタイプの牛乳湯葉を引き上げたラブリーが兎に角懐かしいのであるが、残念ながらこの辺りではお目にかかれない)、味は秀逸であった。それで345ルピー(863円)である。

ベジタリアンのタリーは315ルピー(788円)だがまだ試してない。これが昼のセットメニューである。

夜はアラカルトで、タンドリチキンも旨いし、マトンのも良い。館長は掛け値なしにお勧めする店である。
2006/7/2のノンベジタリアンタリーです・・
日によって変わるの魅力です・・
ブルームズの年忘れ昼食

2007/12/31

2006年12月31日、グルガオンで越年を迎えようとしていた館長は、越年組みのYさんに声をかけた。
「たまには外食でもしませんか。」
「いいですね。今まで行ったことのないところがいいですね。」

デリーの南東の外のネループレイス、インターコンチネンタルに案内することにした。

ネループレイスは、新興オフィスプレイスとして20年以上前に開発されたところで、当時の建物は既に薄汚くなってとても新興とはいえない状況であるが、最近再開発の機運が高まり、見違えるような斬新なオフィスビルが建ってきた。その中の一つに前にも紹介したJETROが移転をして脱皮した。そのJETROから歩いていけるところに、パークローヤルホテルからインターコンチネンタルと名前を変えたホテルがある。

そこの日本流の一階に、24時間営業のブルームズ(Blooms)と言うレストランがある。そこのブッフェをトライした。31日は特別で、中と外の両方を使っての一大ブッフェであった。

主なメニューを紹介する。
スープ2種類、充実したサラダバー、インド料理、イタリアンパスタ、寿司、中華、バーベキュー、バラエティーに富んだデザートと果物、食後のチーズ、輸入の果物を惜しげなく使ったフレッシュジュースが主なものであったが、残念ながら全てを試食できなかった。

注目すべきは、ラスカ(Laska)と言うスープであった。ビスクを思わせるベースのスープにチリーでアクセントをつけ、具は、各自の好みで、剥き蒸エビ、チキン、上げ豆腐、火を通したねぎ、レッドチリー、木の実の類、レタス、キャベツ、ブロッコリー、ゆで卵等を器に先ずとりその上に熱々のスープを注ぐのである。一口食べてまいったのである。このような味がインドで経験できるとは全くの想定外であった。館長は、デザートの2杯目に挑戦してしまった。

サラダバーは、完全なイタリアンサラダが出来るようにレタス、紫のサラダ菜、ゆでたアスパラ等の野菜類が用意されていて、ハム、ベーコン、ソーセージの種類とグレードが充実してい、更に、うでたムール貝、大エビ、マッドクラブ、スモークとまでが用意されていた。ドレッシングは10種類はあったろう。此れだけでも満足である。

外の設えも見事で、寿司のカウンターには鮪、鯛、烏賊、サーモン、沢庵などが用意されてた、バーベキューのカウンターにはチキン、エビ、ビーフ、鮭、野菜の串刺し等食いきれない種類と量が用意されていた。パスタのコーナーでは、スパゲッティからペンネ、マカロニ、ラビオリ此れも普段お目にかかれないものも並んでいた。

ジュースのコーナーには、輸入の葡萄、パイナップル、西瓜、オレンジ、人参、キュウリ、ジャックフルーツなどがリクエストに応じて目の前で絞ってくれる。

インドカレーのコーナーはその圧倒的な香りのシンフォニーに圧倒される出来上がりで、一口食べると本物であることが知らなくても分かる味で、インド人がインドカレーを自慢するのが納得できる出来上がりでした。

デザートコナーも西洋とインドの両者を種類豊富に取り揃えたもので、感心。特にインドのスートを5種類以上そろえてあったのが気に入った。カスタードプリンも良いできであった。飲み物は飲み放題で、シャンパンを飲んでいる人が多かった。

で、1800ルピー(4750円)はリーゾナブルと館長は考えた。年忘れには良い昼食であった。Yさんも満足の様子でした。


Bolloms
Intercntinental
(Nehru Place Hotels Ltd.)
Nehru Place New Delhi 110 019
91-11-41223344
 
入り口です・・ 
黒の大理石に、服装が合わせてあります・・ 
クリスマスの飾り付けが残っていました・・
一階ロビー右奥のブルームズの入り口です・・
外の一角にジュースコーナーが・・輸入の葡萄を使ってました・・
南インド料理のコーナーです・・蒸し器の中はイディリーです・・
寿司カウンターです・・握りと巻物を作ります・・
サラダコーナーのハム、ソーセージそれに葉っぱ類が見えます・・
デザートコーナーです・・毒が並んで・・
ムール貝、大エビ、マッドクラブ、チキン・・
定番インドカレーです・・香りを送れないのが残念です・・
パスタのコーナーです・・
今回は残念ながらここまで手が出ませんでした・・
チーズも充実です・・
インドもお菓子が6種類並んでます・・中段、左から、チャムチャム、グラブジャーマン、バルフィー、ラスグッラ、ラドゥー、ハルワ・・
果物。右端は、チョコレートファウンテンで串刺しの果物をどっぷりつけます・・
左が、ラクサ(Laksa)スープの壷です・・想定外の旨さでした・・又食べたい味でした・・
ビカネールワラ(Bikanervala)

2007/1/12

ラージャスタン州はマルワリー商人の出たところで有名であるが、今はマルワール地方と言う行政地域はない。ビカネールと言う行政地域の一部であったようである。

ビカネールと言う地名にワラ(vala またはwala)と言う英語で言うbeingをつけて、ビカネール物(者)と言うチェーン店が出来た。今までのインドスナックを扱う店と一味変えて、言わばアメリカンスタイルのインドスナック店を作り出した。入り口もインド離れをしていて、中が明るく、会計も前払いで、食品を扱う店員スタッフは使い捨てのポリエティレンの手袋を使っている。

値段はリーゾナブルで、一人100ルピー(250円)も用意すれば十分おなかも膨れる。味は安定していて旨い。食べ物は全てベジタリアンである。

館長は前にも紹介したが、チャナ・バトゥーラがお気に入りで、向うも顔を覚えているようで、いつも笑顔で歓迎してくれる。

今は冬のサービス期間で、派手に盛り上げている。
入り口である。堂々としているのが今までのスナックと違う・・
現金前払いのカウンターの前に料金表が掲げてある・・明朗会計である・・
店内二階の雰囲気である。金持ちの家族ずれが多い・・
一階の菓子売り場である・・北インドの殆どの菓子が用意されている・・
冬のセールスのチラシである・・なんかクリスマスをイメージしているようであるが、クリスマスとはどこにも書いてないのがインドである・・
おなじみのチャナバトゥラである・・
お子様用の4輪馬車が用意されていた・・無料で乗せてくれる・・
チャトニー

2007/2/1

日航ホテルの一階(日本流の2階)にチャトニー(Chutney)と言うインドレストランがある。ここのレストランの特徴は、普通のインドレストランと違いゆったり座り静かに食事が出来るて点と、一人前ずつ頼んだものが出てくる点である。

喧騒と混乱の中、皆で奪い合うようにして食べる普通のインド料理の食べ方とは一寸文化が違う感じである。中華でもこのような出し方をするところがあった記憶があるが、ヌーベルクジーンとでも言うのでしょうか?

味は上品で旨い。ベジタリアンもノンベジタリアン何れも旨い。館長は今日は、エビのカレーを頼んだがなかなかのものであった。

一回は食べてみる価値はある。

因みに、Chutneyと言うのは付け合せのことで、日本語でチャツネとなっている。辞書には「インド料理で用いる薬味。マンゴーなどを酢・砂糖・香辛料で煮つめたもの。」とある。
入り口からして通常のインドレストランと違う・・
ゆったりとシックな感じの設え・・
一人前ずつでるので取り合いにならないし、強引に進められることもない・・自分の好きなものだけ頼めばよい・・
ナンも小ぶりで一人用である・・
名物のチャトニーである・・左からライム、柘榴、グアバが材料であった・・

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

インド経済の現状と展望

2002/9/4

インドの外貨準備

 三菱商事の3度目の駐在の帰国が決まった1991年の2月インド政府は新規LCの開設、外貨送金の全面停止を宣言した。インドの手持ち外貨は5億ドルを割り通常の外貨決済の2週間分しかなくなり止むおえぬ措置であった。この発表を聞くなり元大蔵次官のマンモハンシンさんのところに懸け込み、「延払いの期日の来たものと、サイト付LCの決済は例外としないと、デフォルトを起すことになるから至急措置を取った方が良い。」と忠告をした。
 彼は、その場で電話を取り、大蔵省に上記の忠言をそのまま伝えた。インドはデフォルトを起さず、日本銀行、輸銀からの二億五千万ドルのカンフル注射を受け何とか危機を乗りきった。その年の7月に新経済政策が発表され、外貨規制は徐々に緩和の方向に向かいながら、外貨危機を乗りきった。2002年8月末現在の外貨準備高は610億ドルで隔世の感がある。
 外貨危機を規制を強める事をせずに、自由化の方向で克服した国の例をインド以外に聞かない。4~5年前のアジアの通貨危機の際にもインドはその影響を受けず、最近は対ドル相場も堅調を維持し大変安定している。インドの外貨準備はもう心配は要らない状況である。

インドの経済指標

 インドの人口の約7割は依然として農業に依存している。英国統治時代から1947年の独立数年後までは、大体5年に1度くらいの割りで飢饉に悩まされ数十万の人が飢え死にしていた。それが1960年台のパンジャブ州を中心にして起こった所謂グリーンレボリューションと呼ばれる大農業革命により、穀類の生産が増産され、いまでは年に数千万トンの余剰が出るようになっている。このためインド政府は、穀類の生産がこれ以上増えると買い取る量が増えるので嬉しい悲鳴を上げているのが現状である。

 インドの国民所得の伸びを見るときには、工業生産と農業生産を分けて見る方が良いのかもしれない。工業生産の伸びが農業生産の低い伸びに食われてしまい停滞していると勘違いされる結果になりかねないからである。農業生産は1%以下の伸びでも政府の買い上げ負担は大きくなり、政府は公言していないがあまりの農業生産の伸びを期待してない節もある。

年度

9394959697989900
農業生産  前年比  %3.65.0-2.7 9.3-5.77.7-0.25.8
製造業 (売上高)18.327.824.710.97.26.911.814.9
国内総生産5.97.37.37.84.86.66.14.0

 インドのGDPの伸びは大体4~6%台で推移するのが正常と考えたい。最近史を振り返ると7%以上を継続的に維持し軟着陸を達成した国は無いのではなかろうか。その意味でマンモスの歩みのように4~6%程度の伸びを続けるインドは着実な国と評価できる。7%以上の伸びを続ける国は必ずリバウンド(破断点)がある。

 インドの一人当りGDPは、2000年に450ドルになった。ちなみに、中国は840ドル、タイは2000ドルである。この数字を低いと取るか、伸びる可能性があると取るか、意見は分かれようが、私は伸びる可能性がある数字と考え期待を込めたい。

インド進出日本企業

 日本のインドへの進出はインドが期待したようには伸びてきていない。
 現在は、自動車、電気を中心に約200社が進出しているが、インドの期待はそんなものではなかった。
 1991年の経済自由化はそれまでのマハトマガンジー・ネルーの自給、自立、独立を目指すところから180度転換し、国際的相互依存(インターディペンデンス)に宗旨変えをした。国際的に評価の高い最新技術の導入をし、外貨を歓迎する政策である。

 しかしながらインドの外貨歓迎政策は、外貨を優遇すると言う政策で無い事を指摘しておきたい。歴史的にインドは外貨がインドの富を収奪した苦い経験をしているため、外貨が自由に振舞う事を極度に恐れ、悪名高い規制一本槍のFERA(外為法)を作り、外貨の流入を押さえてきた。その政策を、外貨がインドでインドの資本と同じ条件で仕事をする事を歓迎すると言うところまで、清水の舞台から飛び降りる決断を1991年にしたわけである。
 インドの英知はインドの市場性を評価すれば目先のきく外貨資本は喜んでインドに進出すると考えていた。特に、20世紀に奇跡的な経済発展を遂げた日本が先頭を切って進出をしてくると分析していた節がある。残念ながら、1991年と言う年が日本のバブル崩壊の整理期間が始まる時期であったこともあり、インドが期待したほどの日本資本は進出して来ていない。

 日本企業の進出分野は、先ず自動車産業が挙げられよう。経済開放以前から進出していた、スズキを筆頭に、トヨタ、ホンダ、三菱が轡をそろえている。それに付随した部品メーカーの進出が目立っている。二輪車ではホンダ、スズキ、ヤマハ、カワサキが進出している。特に目立つのはホンダの2輪で、バイク,スクーターに進出している。ホンダのバイクの生産量はここ6年の間に年間15万台から150万台の10倍の伸びを示し、更に先を窺っている。

 家電関係も、ソニー、松下、シャープ、サンヨー、日立、東芝、ダイキンなどが進出をしているが、韓国のLG、サムスン等の大型進出にはかなわないのが現状である。
 その他の目だったところでは、旭硝子のフロートガラス、日清ラーメン、三菱化学のPTA(ペットボトルの原料)、YKK等が挙げられるが、中国に対する進出に比べると著しく進出分野が限られている。

インドのIT産業

 アメリカのカーネギーメロン大学に国防省の資金でSEI(Software Engineering Institute)がソフトウエア開発会社のランキングを作っている。トップであるレベル5に位置する世界の企業は69社あるが、その中でインドの企業が67%の46社を占めている。
レベル4の73社中28社がインド企業である。(2002年5月現在)残念ながら、日本の企業はレベル5および4には1社もなく、大手の殆どがレベル2或いは3と言われる。
 インド人はチームワークは不得意といわれる。そのインド人の会社が組織としてレベル5に綺羅星の如く並んでいる。今後のインドのソフト開発はどこまで行くのか見当がつかない。最初は、プログラムのバグのチェックを行う事から始めたインドがいまや世界のソフト開発の先達として君臨している。
 アメリカにいるインド人、その数322万人と言われ、IT産業のあらゆる分野に浸透している。もはやアメリカはインド人無しではITが動かなくなっている。クリントンをして5日間インドに滞在せしめた理由はこの辺にあるのと考えるのが妥当なところであろう。

 先進欧米諸国はインドのソフト開発会社を起用するのに躊躇は無い。先進国で唯一日本がインドのこの分野での実力を評価し得ないでいる。インドを起用すれば安くソフト開発が出来るのでは等と、勘違いしている。世界のソフト開発の先端がインドであることを認めていないのである。

カーネギーメロン大学 SEI(The Software Engineering Institute)による高度ソフト開発企業リスト   2002年5月 * SEIはアメリカ国防省がスポンサーのR&DのInstitute

国  名レベル4企業数レベル5企業数
オーストラリア 
カナダ 
中  国 
フランス 
インド2846
アイルランド 
イスラエル 
ロシア 
シンガポール 
アメリカ3919
日  本  


インドの将来

 インドの人口はおそらく21世紀の半ばには中国を超え、世界第1の人口大国となる。しかも、食料を自給しうる国である。この二つを取って見ても、インドがいかに市場として大切なところであるかがわかる。家電製品で飽和状態になっている日本の家と違い多くのインドの家々には、家具すらない。そのインドを支える農民の懐にはルピーがある。それが需要に結びついて来るのはすぐ先の話であろう。

 又、ITについてのアメリカとの関係を考えると、アメリカとの蜜月は続く事は確実であろう。IT不況といわれたこの2年間でもインドの一流IT企業は売上を着実に伸ばし利益を増やしている。インドのITソフトの開発レベルは世界で群を抜いているといえる。

 大国を支えるバックボーンの農業と、世界の先端をリードするIT産業とを併せ持つインドは21世紀の経済大国として看過できない存在である。21世紀の経済大国は、アメリカ、中国、インド、日本の順になるであろう。しかもインドは、政権は不安定としても政治機構が非常に安定しているし、過度の成長率を示していない点から見て、非常に安定性のある国である。

 今日本では第2の中国投資ブームと言われるが、インドの市場も遅れはするものの必ず花開くことは確実であると判断される。中国一辺倒のリスクは中国がこけた時の事を考えるとゾットするものがある。そういうインドに進出を決めた財閥系韓国企業はアメリカとインドの関係を分析し、中国の危うさを考慮に入れ、戦略的に進出を決めているように感じる。日本のメーカーの中にもインドの重要性を理解し、又、その資質を評価して、進出をしてきている企業もある。

 トヨタは新たにトランスミッションの工場をバンガロールに作り、アジアの工場にトランスミッションを供給するプロジェクトを開始している。ホンダは2輪の生産基地をインドに移しR&Dおよびデザインまでをインドで行うのでは無いかといわれている。YKKの進出もインドの人口を目においてのことと思う。近々味の素も進出を考えているようである。日清食品はインド人の食生活を変える気迫でマーケッティングを行って、ついに数年前年間100万食を売上げている。

 1961年の夏、外語の学生であった私は、船で21日をかけてカルカッタ(現在ではコルコタと呼ばれる)に向かった。途中バンコクに寄港した際にそこの日本人からタイ人の男性がいかに働かないかとの苦言を聞いた。今2002年、タイ人が働かないとの話は聞かない。今インドでインド人が働かないと苦言を呈する日系進出企業と、インド人の資質を他のアジアの国より優れていると評価する会社とが混在する。
 ホンダは最新のスクーター工場で操業をはじめたが、日系のベンダーは出入りしていない。インドのベンダーを教育して、世界のホンダの品質を作り出し輸出も行っている。インド人の資質、インドの会社の可能性を引き出している。私はホンダの物作りに関する洞察力を評価すると共に、その決断力に日本の可能性を託したいと考えている。

 
私のインド7不思議

2002

インドに生活してそろそろ19年になる。その私が、近頃感じるセブンワンダーが有る。

 覇者の不在
日本の高校の世界史で印度の歴史に割かれる時間は年間45分と言われる。その中で言及されるのは、4大文明、アリーや人の侵入とバラモン教、カースト制度、釈迦の話、回教徒の侵入、ムガール帝国、英国を初めとする西欧の侵略、独立運動とネルーとガンジーなどで、文化遺産としてタジマハル、エローラ・アジャンタ石窟寺院紹介される、中国の歴史杜比べると覇者の不在が顕著である。中央集権的な専制君主の酒池肉林の話は皆無である。アショカ大王に代表される覇者達については、仏教を敬い、旅人を大切にし、慈悲のアシュワメーダ(馬司祭=馬追いの祭り)の逸話が語られる。覇者が専制的に権力を楽しむ習慣はムガール進出まで待たなければならない。

 外国からの侵略
従い印度の王達は外国を侵略する事など思いもよらず、常に外国からの侵略に任せた感がある。古くはアーリアの進入、ムガールの侵攻、西欧諸国の侵略である。こんな無警戒な大国は聞いたことがない。

 外国文化のインド化
多くの外からの影響を受けながら、インドはそれを常にインド化してしまい、結果的にはインド文化がその包容力で消化吸収してしまう。インド化された回教は他国の回教とは随分違っているのはご承知の通りである。ヨーロッパに行ったアーリア人の一派は行きつくところキリスト教と言う一神教に収斂したが、インドに入ったアーリア人はインドの影響をまともに受けて、現在の多神教を基盤とするヒンドゥーイズムの真っ只中にいる。英語も結局はインドが世界最高の使い手になる過程に有るとも言える。

 外貨危機を外貨の自由化で乗りきる独自の発想法
1991年の2月、インドの外貨準備は5億ドルを割り、対外決済が不能になりかねない事態となり、日銀、輸銀の2億ドルあまりの援助でなんとか危機を回避した。その後、5月には新経済政策を発表し、ルピーの切り下げを行い、それと同時に、外貨自由化の施策を打ち出した。翌々年末には150億ドル近くの外貨を保有する事になり、ものの見事に外貨危機を乗りきった。外貨危機を発った年で、しかも外貨規制を緩める方向で乗りきったインドの英知は他の国では見られないものであった。日本も、インドネシアも、他のあらゆる外貨危機を経験した近代国家は、外貨規制を行う事で外貨危機にあっているのが歴史的事実である。インドの発想法はユニークであり、独創的である。それが、独自の判断でサンフランシスコ条約とは別個に日本と平和友好条約を結ぶ判断した歴史的事実にも通ずるところである。

 母国語を捨てる
インド文化は独特のものがあり、しかも深い。ある人曰く、文化交流といっても一・二年やるともう日本に紹介する種が無くなるような国が多い中で、インドと中国は別格で10年20年日本へ紹介するものがある。声明、音楽、舞踊、絵画、彫刻、文学等あらゆる方面で非常に高度な文化遺産を継承している。そのインドが全体的な方向として母国語を捨て英語に収斂しつつある事は大変なことである。日本を例として考えるといいかにとんでもない事か良くわかる。

 飢餓からの脱出
英国統治時代から独立数年までインドは5年置き位に、飢餓に悩まされていた。飢餓の時には数万人から数十万人が死んでいった。それが現在では毎年数千万トンの余剰グレインを産出するまでになっている。10億人の食料生産とその配分を大きな瑕疵無しにインドはやっている。これを独立後十数年でやり遂げている!

 ヒーローホンダの奇跡
ヒーローホンダの100ccバイクの評判は国内外で非常に良い杜聞く。ヒーローホンダ1社で年間約150万台生産している。過去5年にわたり年々10万台近く増産している。10万台というと工場1つの生産量といえる。これを5年間連続して増産したことは、瞠目する事で、これを指揮した人を敢えて英雄と呼びたい。が、しかし、それが達成されたのは山崎氏の手柄だけではなく、それに応えたインドの技術レベルがあったといえる。汲めば応える技術の潜在能力がインドのベンダー企業及びそこに働くインド人技術者に有ったからに外ならない。そこを見ぬいたところにこの奇跡を起こす1つの秘密があったのではなかろうか。

 ITソフト開発
カーネギーメロン大学のSEIのソフトランク表のトップのレベル5に位置する世界の企業は約30社あるという。その中でインドの企業が約半分を占めている。日本の企業はレベル2~3と言われる。インド人チームワークは不得意といわれる。そのインド人の会社が組織としてレベル5に綺羅星の如く並んでいる。インドのソフト開発の行きつく先は見当がつかない。最初は、プログラムのバグのチェックを行う事から始めたインドがいまや世界のソフト開発の先達として君臨している。アメリカにいるインド人、その数xxマン人と言われ、IT産業のあらゆる分野に浸透している。もはやアメリカはインド人無しではITが動かなくなっていると言われる。クリントンをして5日間インドに滞在せしめた理由はこの辺にあるのかもしれない。

 
交渉はうんざりだが、本音で付き合うと……

2003/5

インド人あるいは印僑とのビジネスとなると、マユをしかめる日本人が多い。何しろお金に対する執着心がすざまじい。1円あるいは1銭の値引きのために、数週間、数カ月も粘る。交渉を続けているうちに、うんざりしてくる。しかし、いったん仲間内に入れてもらうと、そこには別世界の魅力あふれるインド社会が開けてくる――。

◆へきえきするインド人との交渉
 インド人とビジネス経験ある日本人は、インド人の交渉力にへきえきとしたという話をよく聞く。彼らは、交渉に時間をかけることをいとわない。前日に決着がついたと思われることが翌日蒸し返される。ようやく契約にこぎつけても、直前になって予定が変更される。
 コンペチターの会社のレターヘッドを入手して、それに安値をタイプして机の上に置きっ放し、交渉の途中に中座する。わざとこちらに読ませて値引きの交渉をはかる、などという姑息な手段を使うこともある。また、韓国から有利な条件のオファーがある、などブラフかけてきたりする。値段の話が決着した後で、実質値引きになるような付帯条件をつけることもある。世界の最新技術情報に詳しく、それをたてに値引きを画策する。思いもかけないようなユニークな論法で値引きを迫ってくる。
 契約書は、見ただけでうんざりするほど分厚い上、使われている英語が難解極まりない。しかも、1言1句にいたるまで入念なネゴが行われる。単純な売買の大筋が決着した後、契約書を作るのに数日かかることもままある。
 彼らの口から出てくる言葉は、すべて自分の得になることばかりである。どんなに見てくれのよい言葉であっても、よくよく考えてみると、言い出したインド人が得になる条件なのである。自分の要求を常に前面に出してくるという意味では、インド人は非常に正直な国民であると言える。
 「時は金なり」と言うと、日本人は「時間がもったいない」という意味に取る。しかし、悠久の歴史を持つ彼らには、そういう感性はない。高速料金を節約するため一般道を悠々と走り、トクをしたと思うのがインド人である。交渉に時間をかけて儲けることが、彼らにとって「時は金なり」なのだろう。

◆仲間内では口約束で多額な取引も
こんな話をすると、インド人とはとてもビジネスなどできない、と読者の方は思うかもしれない。しかし、どんな国にも建前と本音がある。パイナップルのトゲトゲした皮をむくと、中からジューシーな甘い果実が顔を出すのと同じだ。
インドはご存じのとおり、カーストの社会である。インドには数百種類のカーストがあり、同一カーストあるいは伝統的なカーストの間では、面倒な契約書など一切ない。すべては、口約束で動いている。
ホテルのサウナなどに入ると、マルワリのおっさん達が素っ裸で数クロール(千万)ルピー(1ルピー=2・66円)の貸し借りの話をしたりしているのを見かける。話が終わると、聞き役のおっさんが首を横にかしげる。これは「ノー」と言っているのではない。首を横にかしげるのは、インドでは「イエス」のサインなのだ。サウナから上がった後、彼らは改めて契約書を取り交わすわけではない。口約束だけで、十分なのである。なぜなら、彼らが同じカーストの仲間だからだ。
ラージャスタン州には、借金の担保はあごひげ一本を引き抜きテーブルの上に置けばそれでよい、というカーストもある。こうした風習は、インドの長い歴史と文化によるものである。インドでは、ひとたび約束事を破るとカーストの中で村八分となり、生きてゆくことができなくなる。いわば生存権そのものが剥奪されるのである。宝くじで大当たりしたデリー在住の洗濯屋が、もらった賞金をすべて自分の所属しているドビー(洗濯屋のカースト)に寄付したという話があるが、これもカーストの絶対性を物語るものであろう。
 こうしたインド人と商談をやるときには、自分の考えていることを、忍耐強くとことん相手に理解させることが必要である。直截に、飾らずに、率直にこちらの条件を十分理解してもらう。日本風の腹芸とか「沈黙は金」といった考え方は、インドでは評価されない。
インドではまた、韓国や中国と違って、会食の接待はよほどのことがない限り必要ではないし、長年の習慣で外で食事をするのを好まない人も少なくない。贈り物も喜んではくれるが、必要不可欠のものではない。服装も飾ることはない。ただひたすらに交渉をすることである。

◆差し出された金額欄空白の小切手
交渉に交渉を重ね、商売に商売を重ね、お互いに理解し合い気心が知れてくると、まったく予期せぬ局面が開ける。コミュニティーの一員あるいは家族の一員として扱ってくれるようになる。こうなると、何もかもがスムーズに行くようになり、値段の交渉は厳しいが、ほかの条件でだますようなことはなくなる。
私の経験では、アポなしで四六時中いつでも相手の自宅に入っていけるようになるし、向こうもこちらの寝室まで平気で入ってきたりする。突然、何の前触れもなく昼飯時に出向いても、相手は大歓迎で昼をともにすることなど日常茶飯事になったりする。
私が7年に及ぶ駐在を終え、日本への帰任の挨拶のために、長年の取引先であった政府企業の会長室を訪れた時のことである。私が来訪の趣を話すと、会長はつと立って、机の引出しから小切手を1枚取り出し、「これなら旅の邪魔にならないだろうから受け取ってほしい。お前にはいろいろ世話になったから、必要なときに、必要なだけ使ってくれ」と差し出した。金額欄は、ブランクのままである。受け取った私の手が、感動でぶるぶる震えたのを、今でも覚えている。インド人と本当に良い付き合いができたと、あの時しみじみと感じた。
会長とはもちろん、裏金一切なしの取引であった。小切手は今でも、私のアルバムの中に大事に保存している。インド人との大切な友情の証として……。
インド人との交渉は、たしかにくたびれる。しかし、仲間に入れてもらい、本音の付き合いができるようになると、インドは魅力的な国になり、インド人がかわいく見えてきたりするのである。

 
インドのイメージが変わった

2002/12

マハトマガンジーが目指していた自立、自給自足の理想をかなぐり捨てて、国際相互依存を標榜する国を目指して、インドが1991年に経済自由化に踏み切ってから12年が経った。この12年間で、インドのイメージは、「貧困国」、「蛇使いの国」、神秘の国」から、「IT大国」、「21世紀の投資先」、「21世紀におけるアメリカ中国に次ぐ経済大国」に変った。このインドのイメージを変えた背景を見てみよう。

  • GDPが1991年に比し、3.3倍に増加した。(インドが中国に次いで世界で二番目に急成長している。)中国の成長率に比べ低い比率を指摘する人もいるが、7%以上の成長を破断点なしに軟着陸できた国が歴史上稀であることを考えるとむしろインドの成長率は安心感を与えるもので非難されるべきものではないと考える。
  • 貧困者の比率が37%から26%に減少した。インドのIT化促進によるによる貧富の格差の増大の可能性を指摘する向きもあるが、この数字が示すように、この12年間に底辺の嵩上げが着実に行われている。
  • 識字率が51%から66%に上昇した。着実に効果を上げてきているインド政府の教育に関する努力を評価すべきと考える。しかもその教育は、一神教的な盲目的にコーランを暗誦させるような画一的なものではなく、多様性を容認する人間的な教育の面を有している。
  • 就労人口が3.1億人から4億人に増大した。未だ国の8割以上が農業依存の国で徐々に就労人口が増えるのは正常と言える。
  • 国民一人当たりの収入が倍増した。インドに進出する外資にとっても購買層のキャパが増大することを意味し、インド人の起業も容易になってきている。
  • 輸出が5倍増した。インドの国際規格に関する関心が高まってきており、インドの生産品が国際的にも評価され始めたことを意味している。ISO規格の工場の数の増加は目を見張るものがある。
  • 電話普及率が4倍増した。
  • 大学進学者が1千万人を突破した。(うち技術関係が210万人)。高等教育を自国のスタッフで行える数少ない途上国であり、高等教育に関する国民の関心は非常に高い。アメリカに留学する優秀な人材はアメリカの大学から引っ張りだこと聞く。
  • 中流層が3億人強の厚みにまで増大した。中流の定義について問題はないとはいえないが、インドの中流のコンセンサスは非常に良識ある。インド株式会社の総合判断は常に冷静で、付和雷同せず、パニックを引き起こさない心強さがあるのは、この層のお蔭であろう。
  • 農作物生産量が世界一となった。ここ12年間のモンスーンが神の加護ともいえるほどインドの経済自由化に味方している。穀類の生産量が毎年数千万トンの余剰を生み出しているのは、地球にとってもよいことで、インドが食料を輸入に頼る世界を想像すると身の毛もよだつ。牛乳の生産量の米国に次ぎ世界第二位であり、これらはインド独特のシステムを開発したインドの知恵の勝利でもある。
  • 果実・野菜の生産量地球にとってもが世界第二位となった。インドの野菜・果物の輸出も始まりつつある。パッキング、ロジスティク等の開発が待たれる分野である。

インドのイメージを変えた背景を羅列したが、まだまだ変えなければならない点も多くある。出来ればインドが変わるのを待ってインドに進出するのではなく、進出して変える意志を持った企業の排出を望む。

 
インド進出日本企業の実態とインドの将来性

2002/11/27

インド商工会議所連盟に3年間の駐在
1999年の10月からJICAの専門家として、対印投資促進を目的として3年間ニューデリーに駐在して、2002年10月に帰任した。
赴任の時期は、インドの核実験により日本政府がサンクションを宣言して、新規円借款が停止しているときであった。その中で、人道的援助と、人的な支援はサンクションの対象外とのことで、インド政府が専門家派遣の要請をしてきた。それに基づき、上記の通の対印投資促進に関わる専門家として派遣され、インド商工会議所連盟の日本室の一隅に席を置いた。当初は2年の予定であったがインド側の延長要請があり3年の駐在となった。

対印投資促進のための日常業務
インドに駐在して日本企業の対印投資促進をはかるというのは難しい仕事で、何から手をつけるか戸惑う点があったのが正直なところであった。
日本からインド進出を目指して乗り込んできた方々に対するオリエンテーション、コンサルティングは当たり前として、すでに進出している企業の成功談を積極的に日本にPRすることが結果的には進出の機運を盛り上げることであるとの認識から、成功談を拾い上げることを心がけた。その作業の中で、進出企業がいろいろな面で悩みや、問題を抱えているところが少なくないことに気付き、それらの問題や悩みに小職のインド経験が役に立つことが少なくなかった。既に進出している企業のトラブルシュウティングに係るコンサルティングが仕事の重要な部分にもなった。
そんな経験の中で感じたことをいくつか取上げて見る。

二種類の日本企業
日系進出企業のインドに対する評価は二分していて、インド人を積極的に評価する企業と、やや否定的に捉えている企業があった。またインド特有の社会環境を阻害要因として意識しすぎる企業とインドの現状を冷静に分析し対応しているところとがあった。当たり前の話であるが、積極的に評価している企業は巧くいっている企業であり、巧くいっていない企業はその巧くいかない原因の一つがインド人ワーカーの資質やインドのせいにしている場合が見られた。

インドのマイナス評価
インド人をマイナス評価している企業が指摘する点は、常識がない、基礎的な訓練が出来ていない、転職を平気でやる、技術が横に流れない、要求ばかりする、労働組合の要求が法外であるというようなところである。またインド特有の成功阻害要因として、不安定な政権、地域格差、日印間の心理的距離、外資歓迎はするが優遇はしない政策、高金利、高関税、複雑な税制、複雑煩瑣な法体系、汚職の温床、古い因習、インフラの未整備、外国人に対する生活インフラの未整備、インド特有の中華思想等々が挙げられる。これらの説明には相当の紙面が必要となるので具体的な例示説明はまたの機会に譲ることにするが、これらの困難を克服するためにはインドに対する理解を深めることが最低限必要である。外国に進出する際に共通的に起こる問題とインド特有な問題を整理できるとかなりの部分が解決できる。

評価できるインド
インドを評価している企業は、インド人ワーカーの手先の器用さ、視力のよさ、真面目さ、忍耐力、耳の良さなどを資質としてあげている。また、中間管理層、管理層の働きぶりに瞠目する日本人も出てきている。時間外労働をいとわず積極的に責任を持って働くインド人が生まれてきていると言う。会社に対する忠誠心や誇りすら見られると評価する会社もあった。
先に挙げた阻害要因については、それらが存在することを認めた上で、冷静に分析して対応策を講じて乗り切っている。これらの要因はインド企業、外資企業いずれにも平等に影響するわけであるから、日系企業にあるいは特定企業に選択的に適用されるわけでないと考えると冷静になれると指摘する企業もある。インドの会社が巧くやっている、なら国際的な感覚と日本的な感覚も持ち合わす日本企業が巧く対応できない筈がないとの考え方もあるようだ。
さらに、インド企業の生産技術について、潜在的にかなりの程度に到達していて、信頼も置けると判断している企業があり、実際の戦略に組み込んでいるところが成功している。自転車から原子力、宇宙開発まで自前で行っている国であるという認識もあった。

ホンダの例
ホンダは、既にインドが門戸開放を1991年に行う以前に、100ccの二輪車、ゼネレーターで進出をして、その後四輪に進出して成功をおさめている。そこへさらに100%ホンダの資本でスクーター生産会社を設立した。既に生産を開始して、中南米への輸出の分野でもホンダクオリティーのインド製とのことで好評をえていると言う。そのスクーター工場のベンダーは一社を除き残りは全てインドベンダーで、日系ベンダーは価格的に折合わないと排除された形となっている。インドベンダーを教育すればホンダの品質レベルの部品が入手可能であることを実証している。また、その工場にはインド製の機械が塗装ライン以外では7割以上を占めている。
ホンダはインドの技術水準がスクーター製造分野では十分であることを考慮に入れてFSを行ったようである。さらに、インドにおける二輪に関するR&Dはインドで行うとのことで、かなりの規模のR&D部門をインドで展開すると噂されている。

トヨタの例
トヨタは現在クオリスと言う車を生産し市場から好評を得ている。それと平行してバンガロールにアジアカーのトランスミッションの工場の新設を計画中である。アジアカーのトランスミッションの工場がタイでなく、インドネシアでなく、マレーシアでなくインドである点に注目したい。インド製の製品をアジアの車に載せるということは、コストもさることながらトヨタのインド製品に対する信頼に他ならない。トヨタもインドを積極的に評価している企業である。

インドのソフトウエアー開発
インドのソフトウエアー開発の水準は日本で考える以上に水準が高く、企業内コンピューターのメインテナンス及び開発研究をインドに移す日本企業が見られるようになって来ている。インドのソフト開発についてはまたの機会に譲るが、1点だけ指摘したいことがある。
インド人は個人的には優れていても組織の中でチームワークできないと評価が従来あったが、この点も見直す必要がある。アメリカのカーネギーメロン大学のSEIのソフトウエアー開発に関する企業ランクのレベル5に位置する69社の中にインドの会社が49社入っている。(2002年5月現在)アメリカ国防省が大学に依頼してのランク付けにインドのソフト開発会社が67%入っているという事実に注目したい。インド人の個人的な資質に加え、その優秀な人材を組織化してソフト開発を行うノウハウをインドの会社は持っているということである。
日本の進出企業の中で中間管理職や管理職を評価するところが出てきているのも不思議ではないようだ。

投資先としてのインド
 年々4~6%の成長を続け、膨大な人口を有し、潜在的に近代工業の基礎があり、優秀な人材と資源を持つインドは、市場として、生産基地として、リスク分散先として、日本の友好国として、またアメリカの友好国として、投資先としては日本にとって決して損にならない、それどころか是が非でも投資を増やして行くべき先であることを指摘したい。  
数年前の年賀上に「21世紀は、唐・天竺・コンピューターの時代」であるとかいた記憶があるが、インド駐在19年を終えた今、その感を新たにしている。

 
ソニー・ホンダのもの作り

2000/11/8

――インドはもの作りに向かない国なのか?――

政府派遣ミッションは10月30・31日の午後ソニーインディア社とシエルホンダ社を訪問した。

ソニーの工場は、日本から中古の機械を入れ、廃品寸前のスティールデスクやプラスチックの部品入れをリサイクル利用し、又日本から輸入した設備の梱包資材までを有効利用して作業台や部品棚を作り、まるで終戦後の物の足りない時代の工場の印象さえあたえる手作りの工場であった。ソニーの方は1960年代の工場ですよと言っていった。その中で一際目立った設備は、検査機器でこれは最新のものを据付けていた。工場内は、建設コスとを引き下げるために一部はコンクリではなくインド特産の床材用のコタストーンを敷き詰めたところもあるが、とても清潔で塵1つ落ちていない。毎朝10分間自分作業する回りを工場長以下各々が掃除をする事が効果をあげているようだった。

工場はデリーからジャイプルへ向う道路の約70キロ地点にあるダルヘラと言う村にあり、高校卒男女が11台のバスで周辺から集められている。阿部工場長以下女子を含む全員がユニフォームを着用し、同じ食堂で食事をし、男女国籍による差別がない工場である。給与は周辺の他社と比べ決して良くはないが定着率は97%とソニーのアジアの工場の中で一番良いとことである。インド人の資質は、目が良くて、手先が来ようで、単純繰り返し業を忍耐強く行い、サボらない、ソニーのアジアの中心であるマレーシア工場より優秀であり、問題点はない。流れ作業のコンベヤーに並んだ女工さんは目を輝かしながら、テレビの基盤作りをやっていたが、70箇所に及ぶマウンティングをそれぞれがすでに頭に入れて目の前に張ってある設計図など目もくれず黙々と作業をしている。全てが手作りでTVが完成する。最後の超近代的な検査で落ちるものはほとんど無いそうである。(インドは東西に長いため北と南では地磁気の強さが違い南北で調整を帰るような細かいことをソニーは行っていた。)

手作りの工場で手作りのTVを作ってそれが国際的に問題ない品質のものであると言う驚くべきことをソニーはインドで成し遂げつつある。

ブラウン管を除く70%は国産品を使っていて、今の体制でもソニーは市場さえあればどのような製品でも作れると自負していた。

ホンダの工場はデリーから川を渡ったグレーターノイダと言うところにある。デリーから約1時間一寸かかる。工場はトヨタのバンガロールノ工場に比べると自動化は進んでいない。同行したトヨタ自動車の方の感想によれば、自動車作りの原点に帰った工場であると。働く工員は生き生きとしていて,見ていて気持ちが良い動きをしている。現在の生産台数は月1000台まで言っていないが、月2000台を目指してがんばっている。

日本人の方の感想を聞くと、手先の器用さ、忍耐強さ、目の良さに加え、耳が良く、エンジンを組み上げ数秒吹かすだけでエンジンのどの部分が悪いのか指摘できる工員が育ってる。その能力は日本人がかなわないと。ホンダのタイを経験した人によるとタイ人より優れていると言えるようだ。

ソニーの安部工場長の言葉を引用すれば、「インド人の工員の目線で者を見ています。インド人の資質の良いところを引出すことに努力をしています。」となり、工員一人一人に盛田イズムが浸透している感じを受けた。

ホンダの就業規則はかなり分厚いものであるが、それと同じようなボリュームで哲学を説いたものがあり、ホンダイズムを教育されている。

両工場に共通している点は、働く工員たちの給与は周辺他社に比べ決して特別に良いわけではないにもかかわらず、目を輝かして働く姿であった。工場は、決して自動機械が活躍する超モダンなものではなく、生産の原点に帰っている。この2工場を見るかぎりインドがもの作りに向かないと言う伝説は、もはや無い。

 

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

2008年11月ニームラナ工業団地 Phase-III

2008/11/28

進出日本企業は18社と聞く。

ニームラナ懇談会ができ、関係者が一堂に会し、月一のペースで連絡会議を開催するようになった。この団地肝いりのJRTROさんも参加するようになった。大使館の三宅一等書記官も11月の定例会議に出席された。RICCOの参加の意向があると聞いている。
建設工事も徐々に本格化してきている。現状を写真にしました。
 
日信ブレーキ
すでにほぼ完成で、生産を開始している。
ACI
建設工事はほぼ完成で、テスト生産を開始している。
ダイキン
工場建設が始まっている。
イマセン
ようやく棟上げの段階でる。
Mytex Polymers India Pvt. Ltd.
骨格が出来上がった。
帝国ピストン
豊田合成
大日、丸紅
整地が始まったところ
ユニチャーム
鹿島・Wig brothers
サダール・バザール(Sadar Bazaar)のプラスティック原料屋

2008/12/30

サダール・バザールは日用雑貨を中心にしたインド最大の問屋街である。オールドデリーの一角にある。

探せば何でも有るという。インド国産の日用雑貨はもちろん、密輸かとも思われる外国製品も入手できるとも言われる。

台所用品、お菓子を入れる箱、イミテーション宝飾品、あらゆる繊維製品、染料、顔料、電気製品、ガラス製品、照明器具、カーペット、ビニールシート、あらゆる紐、あらゆる袋、ボタン、工具、玩具、花火、暖房器具、鍋釜、アルミ製品、化粧版、ゴム製品、食器の類、文房具、タイヤ、自転車等々ないものは無いといわれる。

町はいつでも活気に満ち、商品に溢れかえっている。日曜日は休みの店が多いので、平日に行くことをお勧めする。

伝統ある問屋街であるため、伝統的なレストランがある。我がホームページで紹介したチキンカレーチョーラバツーラレバーカレーなどの安くてうまいレストランもこの街の中にある。

館長が今関係しているのがプラスティック原料を作る工場である手前、プラスティック原料については特別な関心がある。そのプラスティック原料の問屋がサダール・バザールの一角に軒を連ねていた。サダール・バザールのバハドゥールガー通りである。
 
サダール・バザールのバハドゥールガー通りである。
25キロのビニール袋を積み上げ、中の色を見えるように展示してある、プラスティック原料屋である。
この界隈はプラスティック原料を扱う店が軒を連ねる。


プラスティック原料のペレットを入れた袋を売っている店もある・・
チキンカレー

2007/2/16

サダルバザールにアショク・アンド・アショクと言う立ち食いのカレー屋がある。日印経済委員会の忙しい日程の間を縫って、15日の昼にワダワさんの案内で食べに行った。

サダルバザールの中であるから、当然の設えで、座るところもない。今日は木曜日であったのでチキンカレーとチキンブリヤニの2種である。週に3回チキンとマトンが交互に出るという。

この店の特徴として一切植物油を使わないとのことで、純粋のギヒーでのチキンカレーの煮込みのカレーである。チキンといえば通常バターチキンを頼む人が多いのだが、チキンカレー一本やりの店だから、選択肢はない。かなりの量のギヒーを使っているので冬の間は固まってしますので、食膳にコンロを乗せてそこでもう一度暖めて食べる。此れが、旨い。今まで食べたチキンは何だったろうかと言う味である。味が深い。チキンが煮込まれていて柔らかでチキンの味がする。品格のある味でもある。兎に角止まらない。次から次に手が出てしまう。こういう食べ物が世界の各地のコーナーで食べられていると思うと、ホテルなどの高級レストランは何を目指しているのだろうかと疑問を持ってしまう。チキンカレーで此れだけ複雑と言おうか、高度な味を出せると言う奇跡に遭った。

又食べに行きたいものである。横にベジタリアンの店ももっていてそこのものも取り寄せて食べられる。此れも旨いがチキンがお勧めである。ブリヤニもお勧めである。チャパティは食べ放題であった。

営業時間は13:00~15:00で、夜は18:00~21:00であるが、夜はテイクアウトだけである。

幸せを感じた昼飯であった。
アショク・アンド・アショクの看板である・・
チキンカレー2人前、見ただけで味を思い出しつばとアセが出てくる・・そんなに辛くはないがスパイスが効いているのである。勿論チキンは骨付きである。ドラムスティックも悪くないが、他の部位の骨が絡んでいるところも行けるのである。うますぎる。上にホロホロとかけてあるのはコリアンダーの葉である。
長粒種の見事なインド米で炊かれたブリヤニは、あくまでもふっくらサラサラでいくらでも入る。下に見えるのは食べ放題のタンドリチャパティである。
チャパティを焼く専門職。
タンドールと呼ばれる釜のなかは、コークスであった。
となりで食べていた、シクのおじさん。この世の至福に酔っている呆然とした顔である。
オナーである。純白のインドの民族衣装はカレーを扱っていても一点の汚れもない。彼流の粋の表現であろうか・・
左は共同通信の方、右がワダワさんである。ワダワさんはこの近所の生まれゆえ、此処はいわば縄張りである。この店のことを話題にするインド人はいるが、なかなか来れないのがインド人の上流階級の現実である。
バトゥラ・チャナ-

2006/3/31

外出した先で、館長が良く食べる昼飯が、バツーラ・チャナと言うスナックである。チャナ豆(日本ではヒヨコマメと呼ばれていもの)のドライカレー仕立てと、ナンを揚げたようなバツーラの組合せである。

チャナは例えようもなく上手いスパイスの組合せで、辛さも丁度良く食欲をそそり、箸休め(手で食べるのにこういうのかナ)のマンゴーチャツネも程よい食欲増進材として言うことなく、生のたまねぎをスライスした添え物も口直しによろしくて、何もかもが何百年の間にバランスが考えられた食べ物と喝破する。

値段は18ルピー(45円)から50ルピー(125円)くらいまで、店により違うが、それぞれ少しずつ味が異なり、食べ比べも悪くない。オールドデリーのサルダールバザールの兄弟2軒並んだ右の店のがお気に入りであるが、グルガオンのビカネールワラのも悪くない。写真はオールドデリーのお奨め品である
シンディの肉屋さん

2008/12/29

お世話になっているワダワさんに年末の挨拶に行くことにし、ついでに昼飯を誘ったところ、下町の政治家マルワさんの案内で。ワダワさんと近所のおじさんと4人で通称「シンディの肉屋さん」と呼ばれるカレー屋に行ことになった。

サダールバザールはマルワさんの地盤で、行くとなれば正装とマルワさんは一度家に入り、5分で黒の縞の服に着かえてきた。政治家の心得と見た。馬子にも衣装か、立派なものである。

件のレストランは、サダールバザールの真っただ中にある。店の名前はなかった。「シンディの肉屋さん」が通称とのこと・・

座るところもなく、立ち食いである。テイクアウトの人が多いようであったが、焼きたてのチャパティで食べるのが本当であろう・・

鶏のレバーのカレーとチャパティを戴いたが、新鮮なレバーが旨く、また来ようという気持ちになった。鶏をマーケットで買うと内臓がないのだが、このような店で利用されていたのを発見して安心した。通常のカレーのレストランではレバーのカレーは置いてない。
今回は食べなかったが、新鮮な羊か山羊の脳のみそ、も用意されていた。

マルワさんはBJPの政治家だが、サダールバザールに、Malwa Syndicateという事務所を構えていて、もめごと悩み事の相談をさばいているという。町行く人や、車がマルワさんに声をかけるのを見るとなかなかの人気と見た。
 
確かに店の名前はない・・左側がレストランである・・
中央の多鍋が、いわゆるルーであろうか。小さな鍋にギーをたっぷり溶かし、レバーを入れて火をとうす。
店の外ではチャパティだ作れれている。うす過ぎず、厚すぎず誠に結構な焼き加減で、満足のいくチャパティであた。
これがレバーカレーと添え物の玉ねぎである。カウンターは大理石である。
右はじが福を着替えてきたマルワさん、中央が近所のおじさんで、左に顔をのぞかせるのが、おなじみのワダワさんである。
壁には創業者の写真が飾られている。

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

インド人と沐浴

2006/9/8

インドでは浄、不浄の議論はあるが、清潔、不潔の認識が甘いとの議論がある。

チベット人は一生風呂に入らないという話を聞いたことがあるが、インド人はその対極にある。

通常インド人は毎日水浴びをする。しかも朝である。単に水を被るというような生易しいものではない。しっかりと石鹸を体中に塗りたくり洗うのである。デリーの冬は明け方5度以下にもなる寒さだが、それでも沐浴をする。

ベナレスのガンジスの濁った水での沐浴を見ると、確かに浄のため清潔が無視されたように感じるが、グルガオンの工事現場で毎朝身体を洗っている人たちを見ると、清潔を捨てていないようにも見える。

男は必ず整髪化粧品をを使用し、襟首にはタルカンパウダーをつけたりする。綺麗好きでお洒落なのである。

日本流の清潔感とは異なるが、それをとやかく言ってはならない。日本の清潔感の議論は、脂ぎったおじさんが触ったエスカレーターのレールには触れないけど、満員電車でそのおじさんの吐く息を吸うことは議論されない矛盾があり、形骸化されたものであることに気がつくべきである。脂ぎったおじさんが作ったラーメンの旨さは否定しないで、抗菌グッズに走る人たちにインドは理解しにくいかもしれない。

IITMでの講演

2006/10/13

「Cultural Flow to Japan and its influence」

Institute of Information Technology & MangementのダイレクターのDr.V.A. Eshwarさんから、一度是非学生に講義をして欲しいとのことで、今日参上して約1時間半話をした。約100名の学生の前で、館長はつたない英語で、「Cultural Flow to Japan and its influence」と言う題で話をした。

質疑応答がなかったのでどこまで館長の言わんとしたことが伝わったかどうかは不明だが、熱心に耳を傾けていたようであった。

特に、60年代にトヨタがアンバセダーのヒンダスタンモーターを見学に来たという挿話には、その後のGMに技術指導をするまでになったトヨタの発展とヒンダスタンモーター社の停滞を思い起こして何かを感じていたようである。

ここに通う学生はデリー近郊のものが多く、一学年60名の収容能力があり、3年でコースを終了する。。MCA(マスターオブコンピューターアプリケイション)2004~2007年組の写真を紹介されたが、52名の在学者数であった。その写真のブローチャーは就職活動用に用意されたものであった。学生は18~9才で入学し、卒業時は21~2才となる。

年間の授業料は年55千ルピー(13万7500円)で、3年間で合計16.5万ルピー(約50万円)で、かなりの高額と言える。殆どの生徒が、親が保証人となった銀行ローンで賄っているとのこと。金利は、17%前後で、卒業後7年で返す仕組みとのことで、金利は約17%であると言う。日本の銀行もこういう学生奨学ローン辺りから現地事業に入っていく方法もあろうかと思った。

副理事長のMr.J.C. Sharmaによれば、優秀な人材が高給で民間の会社に流れてゆくため、優秀な教授陣をそろえるのが大変であるとこぼしていた。

因みに、Dr.Eshwarとは館長が日印調査委員会の委員をしていたときにインド側委員長のMr.Vasant Satheから紹介されて以来の知人で、彼がチェナイ(昔のマドラス)での大学にいたときにもその大学で講義をしたことがある。

所在地及び館長が名刺交換した人の詳細は以下の通りである。
Institute of Information Technology & Management
Vice Chairman Mr. J.C. Sharma
Director Dr.V.A. Eshwar
D-29, Institutional Area, Janakpuri, New Delhi - 110 058
Tel: 011-25540882, 25572051, 25572239
e-mail: iitdel@ndc.vsnl.net.in
website: www.iitmipu.ac.in
 

IITMの正面
講演を聞く学生達
左が副理事長のシャルマさん、右が、事務局長のイシュワルさん
講演の背景幕
第2回蕨学び合いカレッジ
「インドの文化-インド舞踊」

 

   
 

私達の知らない国インド

 
  インド・アジア開発
     高尾  勝
     清  好延                                
 10月 7日 インドの歴史  講師 高尾勝
10月14日 インドの経済     高尾勝       
10月21日 インドの文化     清好延
 
   
1.
2.
3.
4.
5.
6.
7.
8.
9.
 インドの基礎情報            
 インドの歴史              
 インドの国土と人口           
 インドとインド人            
 インドの政治・経済           
 インド文化の背景           
 人類の移動と文化の流れ   
 インドの文化の影響    
 インド舞踊について         

高尾  勝 担当
   〃
   〃
   〃
   〃
清  好延 担当
   〃
   〃
   〃

1インドの基礎情報









民族 :アーリア族、ドラヴィダ族、モンゴロイド族 等
宗教 :ヒンズー教(81%), イスラム教(13%), キリスト教(2%), シーク教(2%),
佛教(1%), ジャイナ教(0%) (2001年国勢調査)
識字率:61% (2001年国勢調査)
言語 :ヒンディー語の他、17の公認言語と2万2千の方言
政体 :共和制(世界最大の民主主義国)
元首 :アブドウル・カラーム大統領
議会 :二院制
政府   ・マンモハン・シン首相
      ・UPA政権(統一進歩連合・・会議派+14政党、左翼は閣外協力)
インド憲法: 憲法は救済対象部族、救済対象カーストの存在を認め、15条では、宗教、カースト、性、出生地、に基づく差別待遇を禁じている
2インドの歴史
BC 2000年頃インド・アーリア民族のパンジャブ州5河地方への侵入、先住民ドラヴィダ族を南方に押しやりつつ版図拡大定着
      -基本的に人間は豊な土地に流れ込むー
     Punch (数詞の5)
     Harappa, Mohenjo Daro の遺跡 (今では遺跡多数発掘)
BC 900 年頃バラモンが勢力確立( key word : 穢れ、浄・不浄 )
 四種姓(四姓)・・・インド語でVarna( 色の意)と言う
   バラモン  ( 僧   )
   クシャトリア( 王・士)
   ヴァイシャ ( 商  )
   シュウドラ ( 農  )

   不可触民 (Dalit, Untouchable)
      Scheduled Tribe, Scheduled Caste

   Caste ポルトガル語、家柄・血統の意
    インド語で Jati ( 生まれを同じくする者の集団の意)
    結婚、食事、職業などに関する厳格な規制の下に置かれた
    排他的な社会集団の呼称がカースト。
    カーストを経済的な相互依存関係と上下の身分関係で有機的
    に結合した制度をカ-スト制度と言う。
   約3000のカースト存在。

   カースト制度の起源と発達
             
   バラモン教の堕落
BC 565-483
    -477
釈迦(Gotama Buddha, Gotamaは悟った者の意)
ジャイナ教 マハヴィーラ
BC 327Alexander インド到着  ヘレニズム インド/ギリシャ文明交流
BC 263マウリア朝3代目王 Ashoka 佛教帰依
AC 90漢の班超 バクトリアのクシャ王朝を討つ
140Kushan朝(貴霜)3代目王 カニシカ即位
佛教最盛期  僧 三蔵、玄奘
ギリシャ・ローマも八百神 多神教だった           
AC 313コンスタンティヌス大帝  ミラノの勅令   キリスト教公認
AC 325アリウス派否定      ニケア公会議   三位一体説確立
AC 570-632マホメット
8世紀イスラム東進インダス河下中流に拡大、ヒンズー教も拡大
12世紀イスラムのインド侵攻   佛教消滅
1498ヴァスコ・ダ・ガマ  インド南西のカリカットに到着
1510ポルトガル ゴアを占領、基地化す
1542イエズス会goaに到着
 キリスト教は6世紀にインドに伝来ほぼ確実
 Francisco de Xavier(1506-52)
1974.5核実験
1991新経済政策
1998.5核実験
3インドの国土と人口、気候、通貨東西、南北約3,500キロ、面積は328.7万sq.km(日本の約7.5倍)
人口 10億6500万人
熱帯地方から温帯まで(地域により異なる)
紙幣には17言語の刷込みがある    ヒンズー語・英語 + 15言語
4インドとインド人
インドは原理原則の国であり、法治国である。 

インド政府の公正さ(ニチメンの凍結ルピー) 

極東軍事裁判 パル判事
ニュールンベルグ軍事裁判 デーニッツ減刑
 

核不拡散条約(NTP)加盟せず 

米国のIT 産業も国連もインド人に依存している (NASA インド人約30%、国連亦然り)
クリントン・ブッシュの訪印からも米国のインド重視が判る
 
 
インド人気質 
 南北では違いがある、相対論だが概して南の人は純朴、北は度重なる外敵侵攻で鍛えられたせいなのか北の人は油断がならない。 
 インド人を黙らせるのは至難の技と言う言葉があるが、多弁で理屈・屁理屈が多いし、金銭が絡まない時は過剰な程親切だが金銭が絡むとタフなNegotiator になる。 
 インド人は交渉ごとは交渉ごと、と割切ってるのでこちらも割切る事(テーブルを叩いて激論しても、夕方には和やかに酒を酌交わし、翌朝会った時は「良く眠れましたか?」などと暖かい挨拶をする。然し、交渉に入ると又激論。
斯様なことは珍しくはない。
 
 交渉では、最後に難題を出してくることが多々あるので留意要、駄目もとで出してくることもある 
5インドの政治・経済
インドの政治 
 独立   1947.8.15
  パキスタンの独立はインドより一日早い1947.8.14     Kashimir を巡って、印パは4回に亘り戦争をしてきた。他方、マクマホン・ライン絡みで中国と1962年に国境戦を行ないインド敗北。
 国内政治社会正義の実現を理念
経済面では 社会主義と資本主義共存 → 1991年 自由経済に転換
         (計画経済)    
  世界最大の民主主義国
  議会は二院制  
上院 Rajya Sabha 245名、任期6年(2年毎に三分の一を改選)
大統領指名の学識者12名を除き各州議会が選出
下院 Lok Sabha 545名、任期5年(解散あり)
大統領指名の2名を除き、小選挙区制の普通選挙
     州による連邦制 (29州 + 6つの連邦直轄地)
各州に普通選挙制に基づく州議会と、州政府がある。
州政権党が州首相以下の州政府を形成、中央政府は各州に知事を派遣。
外交・軍事などを除き、州政府は国家に匹敵する権限を保有。
 國際関係第二次大戦後長年に亘り第三世界のリーダー役を務め、旧ソ連寄りの立場を採った。
東西冷戦の終結により地政学的戦略面での各国の立場に変化を生じたこと、中国の大国化、IT などインドの力の浸透、などの諸要因で ここ数年米印関係の緊密化が目立つ。
インドの経済 
 経済指標GDP   7,754億ドル(2005年)で世界12位
       内、農業24%、工鉱25%、サービス51%
外貨準備高 1,630億ドル(06年6月9日時点)・・輸入の1.5年分 
年間貿易額 輸出790億ドル 輸入1070億ドル(05年9月)
   日本→インド31億ドル、インド→日本19.5億 (04年)
       農業生産  食用穀物   206.4 (100万トン)
               米     88
               小麦    73
               その他   45  (豆等)
               砂糖    13
               油脂種子  25
               綿花    17
               果実    48
               野菜    90
 インドの経済改革1991年  社会主義計画経済 → 自由化
 インドの日系企業日系企業の進出数(日本人商工会加盟事業所数)
02.12月213社
04.7 276
05.4298
06.1328
06.6352
(企業数 276社)
 インドでビジネスを行なうには - 如何に易しく、如何に難しいか
  世界銀行の「2006年ビジネスを行なう難易度」調査に依ればインドは世界155ケ国の中で容易度115位にランクされている。近隣のパキスタン、バングラデシュ、中国に比較してランクがかなり下位であり、インドでビジネスを行なう難しさを示す。  
6インド文化の背景
多様性
 民族、宗教、食べ物、地域、言語、習慣、政党
ユニティーを求めて
 コングレスのスローガンはユニティー
進入アリア人の先住民に対する迎合策
 神様の肌の色が黒・青が多い
クリシュナ、シバ、サニーなどは青
その裏には、白色崇拝の影が垣間見られる
カーストは社会保障制度の意味があった
 人間が飢えないための知恵でもあった
インドでは無宗教はありえない
コミュニティーのルールを尊重する風潮があった
 インドの民法よりコミュニティーのルールを優先させる
インドの食生活について
 スパイス文化圏、乳酸発酵文化圏
  
7人類の移動と文化の流れ
人類はアフリカから、中東を経て東と西に
 龍の話し
回教、キリスト教、仏教
偉大な発明は逆流した
 小麦の硬い皮のむき方、火薬、羅針盤、紙、ゼロ
 
8インドの文化の影響
舞楽、能
神話、伝説
白への信仰、桃太郎
日本には何もなかった
祝詞の始めの音
オーム
終わりの哲学的意味を教えた仏教
 
9インド舞踊について
インド舞踊の分類インドの四大古典舞踊
バラタナティヤムBharatanatyam
カタカリKathakali
カタックKathak
マニプリ Manipuri

最近ではこれらに加えて、
クチプディKuchipudi、
オディッシーOdissi、
モヒニアッタム Mohiniyattam
も古典舞踊として認められています。

その他には、民俗舞踊劇のヤクシャガーナ、仮面劇のチョウなどがあります。 その他のものは、フォークダンスとして一括されているようです。
私が見た、インド舞踊についてバラタナティヤムBharatanatyam: 佐藤泉さんが小生宅に下宿してました。
オディッシーOdissi:佐藤眞佐子さんと上記の泉さんの競演。日月。
クチプディKuchipudi: 観世のお家元と女形の踊り
カタカリKathakali: 長谷川時夫さんが日本へ招待
チョウ: 同上
マニプリ Manipuri: 遺骨収集のときにインパールで
山岳部族のフォークダンスの会 長谷川さんが2回招待。
ゴティプア:2002年5月末。オリッサ州の州都のブバネシュワルより、ベンガル湾に開け たプリに向かい50キロ時点にラグラジプル村がある。そこにゴティプアがいる。 長谷川さんが招待

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

グルガオンのオフィスビル

2009/6/2

ハルヤナ州政府によれば、グルガオンはインドのシンガポールを目指しているとのことである。

インドとシンガポールの違いは、
整理と無秩序
清潔と無頓着
規則遵守とルール無視
信号の時間が短いと長い
平準化と差別
などが挙げられると思う・・(他にもいろいろ相違点はあると思う)

現在グルガオンで起こっていることは、建築ブームである・・

オフィスビル、フラットと呼ばれるコンドミニアムの建設ブームである・・

確かに、一つ一つのオフィスビルを見ると、アメリカやシンガポールに近いもんもできているようで、今日はそのオフィスビルを紹介する・・
インドの産児制限

2009/3/9

宇宙船地球号の搭乗者数には制限がある。無制限には、受け入れ不可能である。その総搭乗員数の上限はいくらなのだろうか。百億は可能であろうか?

館長の頭の中では、未来の宇宙船地球号の中で、誰を殺すかを議論する光景が目に浮かぶ。搭乗員数を増やさないために、生まないのか、殺すのか、その場合は、誰から殺すかの議論である。

DNAを調べて、優秀な搭乗員のみを、残すという議論。
すでに生まれている乗員の中から、年寄りから始末すべきと言う議論。
抽選で殺すべきという方法。
寿命を60年で切るという方法。
・・・・・

産児制限は人類に与えられた義務であろう。日本は、ようやく少子化に成功した国である。インドのことを羨ましいとみている人たちがいるのは、憂鬱である。

インドだって産児制限をやっている。しかし、うまくいっていない。

1960年代には、
ドゥ ティン バッチャ バス(子供は2・3人で充分)
という標語が使われていた。

つい最近までは、
ハム ド ハマラ ド =We Two, Ours Two (私たち二人、私たちのも二人)
と言う標語に変わり、二人っ子政策が提唱された。

最近は、
We Two, Ours One (私たち二人、私たちのは一人)
と一人っ子政策になった様である。

そんなこと聞いたことがないという人がいると思い、その証拠をここに掲げる。

でも成功しているようには思えないが・・
 
トラックの後ろに書くのは、政府からの強要であろか、それとも所有者の意向か?運転手の主張なのであろうか?
インドのガソリン・スタンドでの燃料価格

2009/3/9

インドのガソリンスタンドで売られている、ガソリン、ディーゼル燃料は、各州により公定価格が設定されている。ちなみに、ラジャスタン州はデリーより高く、最高はマハラシュトラ州であるという。しかし、毎日変動するものではないので、その値段を表示しているスタンドは数少ない。運転手は、どこの州が安いかを知っているので、安いところで補給をする。

写真はニューデリーでの数少ない価格表示のガソリンスタンドである。上から、
 
 ハイオク・ガソリンRs.43.12(\82) 
 レギュラー・ガソリンRs.40.62(\77) 
 スペシャル・ディーゼル油Rs.32.61(\62) 
 ディーゼル油Rs.30.86(\59) 

(2009年3月9日の為替Rs.1.-=\1.90)

ニームラナ日本工業団地

2009/2/4

NH8号(National Highway No.8)沿いに、「ニームラナ日本工業団地」[New Industrial Complex (Japanese Zone) Neemrana]の看板が設置された。

NH8号のデリーから120キロ地点の標識を過ぎて約200メートルの左手である。後ろの無線電話様のアンテナの鉄塔が目印である。

団地内に、団地内の地図のボードも設置された。団地内の主要な道路は舗装され、だんだん体裁を成してきた。
 
ヴィジャヤ・ラクシュミ・ホテル(ダバ)がNH8号の左手、デリーから120キロ地点の手前にある・・
タイヤの交換・修理・空気の充填のサービスステーションもある・・
デリーから120キロ地点の標識は傾いている・・ジャイプールまで142キロである・・足し算すればデリー~ジャイプールは262キロとなる・・
標識の反対側・・
「ニームラナ日本工業団地」[New Industrial Complex (Japanese Zone) Neemrana]の看板である・・日本語が入っているのが泣かせる・・
目印の鉄塔の下に団地内の地図がある・・現在地がいい加減である・・
二輪好調

2009/2/3

世界的な自動車不況の中で、インドの二輪は気を吐いているようである。去年のモンスーンは良く、農民の懐には現金が潤沢という。二輪が好調の一因である。

インド景気浮上を二輪の力が牽引するのだろうか?100ccもさることながら、最近売り出された後輪の幅広のヤマハの150ccが、市場で受けているのが力強い感触を受ける。
 
うじゃうじゃ2輪の利用者が・・
バラカンバ通りの駐輪場である。
もう山盛りの感じである・・

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銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

インド料理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さまざまなインド料理
北インドのターリー
南インドのミールス

インド料理(インドりょうり)は、フランス料理中国料理などと同様、世界の料理スタイルの1つである。特徴の1つは、様々なスパイスハーブを多用することであるが、インドは広大であり、地域・民族・宗教・階層などによって多くのバリエーションがある。

地域による分類

北インド料理

北インドの料理はイランアフガニスタンなど中東の食文化の影響を強く受けており、ナーン (ヒンディー語: नान) 、チャパーティー (ヒンディー語: चपाती) 、ローティー (ヒンディー語: रोटी) といったパンを主食とし、牛乳ダヒーヒンディー語: दही:ヨーグルト)、パニールヒンディー語: पनीर:フレッシュチーズ)、ギーヒンディー語: घी:澄ましバター)などの乳製品を用い、スパイスとしてクミンコリアンダーシナモンカルダモンおよびこれらを配合したガラムマサラなどを多用する。は香り高いバースマティー種が好まれる。ムルグ・タンドゥーリーなど、タンドゥールを用いた調理法も北インド料理の特徴の1つである。

インド国外のインド料理レストランは、パンジャーブ料理ムガル帝国の宮廷料理(ムグライ料理(en))を提供する北インド料理店がほとんどである。

南インド料理

南インドの料理は米飯が主食であり、乳製品よりもココナッツミルク (ヒンディー語: नारियल का रस) を多用する。またスパイスも北インドのクミン (ヒンディー語: ज़ीला) の代わりにクロガラシヒンディー語: सरसों)の種やカレーリーフ(オオバゲッキツの葉)を好んで用いる。油はギーよりもマスタードオイルごま油が多く使われる。菜食主義者が多いため野菜や豆の料理が発達しているが、一方で魚を使った料理も多くある。北インドで長粒種(インディカ種)が使われるのに対し、南インドの米は丸く、外見はジャポニカ種に似ている。しかし粘り気は少なく、粘り気を抑えた炊飯法が好まれる。北インドほど油脂を使わないため、料理は比較的あっさりしている。正餐(ミールス)は、バナナの葉を皿がわりにし、飯、サンバールラッサムヨーグルトアチャールチャトゥニー等を盛りつけ、手で混ぜて食べる。

ベンガル料理

魚のジョル

インドベンガル地方およびバングラデシュで食べられている料理。フェンネルシードニオイクロタネソウ英語版の種[1]フェヌグリーク、クロガラシの種、クミンを合わせたパンチ・ポロンという配合香辛料を風味づけによく用いるほか、白いケシの実(ポスト、posto)をしばしば煮込み料理やチャトゥニーなどに用いるのが特徴。淡水魚カーストを問わず非常に人気があり、ジョル (jhol)というスープにしたり、ダール(去皮して二つに割った小粒の類)と一緒に煮込んだりする。他の名物に、苦味のある野菜の煮物「シュクト」 (shukto) または「シュクタ」 (shukta) とチェナー(छेना, chhena)を用いた菓子類(チャムチャム /ベンガル語: চম চমラショゴッラ /ベンガル語: রসগোল্লা、シャンデーシュ /ベンガル語: সন্দেশ 他)などがある。

ゴア料理

ゴアのカトリック教徒の料理は、旧宗主国ポルトガルの料理の影響を強く受けている。インドでは珍しく豚肉の消費が盛んで、リングィーサなども食べられる。ゴアの有名な料理には、肉をニンニクで煮込んだヴィンダルー(vindaloo)、鶏肉羊肉の煮込み料理シャクティ(xacuti)、豚や羊のもつを煮込んだサラパテルsarapatel)、型をしたパン、ポイー(poee)、ケーキプディングの中間のようなデザート、ベビンカ(bebinka)などがある。

菜食料理と非菜食料理

戒律を理由として、ヒンドゥー教徒の上位カーストの者やジャイナ教菜食主義のための料理が古くから発達している。その他にも、ヒンドゥー教仏教ジャイナ教シク教など菜食をする宗教が多い。イード・アル=アドハーなどの消費が宗教儀礼の中で重要な位置を占めるイスラム教では肉食が肯定される。また、屠畜業に携わるダリット(不可触民)の社会では、肉を食事に取り入れてきた長い伝統がある。このように、インドの菜食と非菜食の伝統は宗教やカーストとの関係が深く、街のレストランでは菜食主義者と非菜食主義者の席は明確に分けられており、両者が同席することはない。

インドの菜食料理では、脂やゼラチンなどを含む一切の動物の肉や動物を原料とする食材を使用せず、も使用しない。しかし動物を傷つけずに得られる乳製品はよく使用され、インドの菜食主義者のほとんどは乳菜食主義者(ラクトヴェジタリアン)である。さらに各種の豆類、穀類、ナッツなども使用する為、栄養学的に肉食は必要ともされていない。ヒンドゥー教シーク教の寺院で参拝者に無料でふるまわれる聖餐は菜食料理である。

ジャイナの中でも最も敬虔な信者は、植物であっても葉、茎、豆だけを食べ、ニンジン (ヒンディー語: ग़ाजल) や大根 (ヒンディー語: मूली) 、ニンニク (ヒンディー語: लहसुन) 、タマネギ (ヒンディー語: प्याज़) 、などの根の部分を食べない。これは「土中の虫などの生き物を殺さないため」ということが理由の一つである。さらに「その部分が“体”にあたる」という考え、つまり枝葉ではなく本体部分を殺すことにつながるとの考えから、できる限り植物さえも殺生することを避けることによる。同様に、ハチを殺す危険の大きい蜂蜜なども摂らない。タマネギやニンニクなど五葷の摂取を避ける習慣はバラモンにも見られる。一方、西ベンガル州アッサム州など東インドの菜食主義者は魚も食べるペスクタリアンであることが多い。

非菜食の料理にも多くの種類があり、中央アジアからムスリムの征服者によって伝えられたものが多い。戒律上、全てのヒンドゥーはを聖なるものとして食べず、全てのムスリムはを汚れているものとして食べないので、一般にそれら由来の物は使われず、鶏肉羊肉山羊肉魚介類などが非菜食料理の主な食材となる。最もよく食べられる肉は比較的値段の安い山羊肉で、インドではマトンと英訳される慣例があるがの肉ではない。鶏肉は比較的値段が高い。インド国民の所得が増加するに従い、食肉の消費量は増加している[2]

「カレー」とインド料理

インドにおける「カレー」(「カリー」)という言葉は、外来語である。インドの人たちにとって、香辛料を使った煮込み料理は数多くあり、それぞれをそれぞれの料理名で呼ぶものである。香辛料を多用するインドの料理を全て「カレー」と呼ぶのは、日本料理で言えば醤油を使ったおかずを全て同じ名前で呼ぶような乱暴な呼び方である。カレーの語源には諸説あるが、タミル語で「食事」を意味する「kaRi」という説が有力である。

そういう状況をよく知っている人間は、逆に「インドに『カレー』はない」と述べる場合もある。ただし旧支配国のイギリスが、一部のインド料理をカレーという名前でイギリス料理に取り入れたことにより、世界中に普及したのも事実である。インド人自身も、インド以外の国の人々向けにわかりやすく説明する上で、この「カレー」という言葉を使うようになっており、内外のインド料理店で「具材+カレー」とメニューに表記している例は多い。例えばラース・ビハーリー・ボースは、当時の日本のカレーを元来のインドのカレーとは違うとして、本格的な「インドカレー」を伝えた人物であるが、「カレーという呼称は間違っている」とはしなかった。

カレー粉もイギリス人による発明品である(詳細は該当項目参照)。南インドにはほかにカリー・ポディという配合香辛料があり、「カレー粉」と英訳されることがあるが、味も原料も異なる。

「浄」と「不浄」

一般的なインド人の感覚として、右手は「浄」、左手は「不浄」のものとされる。そこで食事中に直接料理に触れるのはきれいに洗った右手のみであり、調理された食材の触感を楽しむため、また、本当に清潔であるものかどうかが不明であるため、スプーン・フォーク・ナイフなどの使用は基本的に嫌う。左手はトイレで用を足した際の処理をするためにも使われるため、せいぜい皿や水のグラスの外側に触れる程度に限られる。伝統的な作法ではスプーンなどを使わず、右手で直接パン類をちぎって汁物に浸すか、御飯を汁と混ぜて口に運ぶことになる。その際、親指・人差し指、中指までの指先の第二関節までを使うのがより上品とされる。ただし西洋の習慣に慣れた都会の人はスプーンやナイフを使うのにも抵抗がない傾向にある。また、ゆで卵の殻をむくときなど、どうしても両手を使わざるを得ない場合は両手を使う場合もある[要検証]

浄・不浄の感覚は、他にも徹底されており、揚げたり炒めたりする料理が多いのもインド料理の特徴である。これは、油で調理することで食品が浄化されるという観念に基づく。また食器に磁器・陶器よりも金属製のものが好んで使われるのも、土からできた前者よりも後者のほうが、より清浄であるとの考えからである。他者が手をつけた食べ物は穢れると考えられる。

さらにヒンドゥー教では、伝統的に「浄」と「不浄」の概念がカーストの概念に結びついている。下位カーストに属する人が触れた水や水分の多い食物は穢れると考えられ、かつては高位のカーストと下位のカーストに属する人同士が同じ席で食事をとることはおろか、水を受け渡すことすら忌避された。職業料理人には伝統的にバラモン出身者が多く、行楽や旅行に手作りの弁当を持参する習慣が根強く、家族が家で作った弁当を職場に配達するダッバーワーラーという業種が成立するのもこうした理由からである。近年でこそダリットの女性たちによるケータリング事業が成功した例もあるが、カースト差別が違法となった今日でも食にまつわる差別は報告されている[3]

食材と料理

インド料理の食材

様々な香辛料

パン

  • チャパーティー (ヒンディー語: चपाती) - 「アーター(ヒンディー語: आटा)」と呼ばれる小麦全粒粉で作る無発酵の薄焼きパン。茶色く、平たい。北インドでは最もポピュラーな主食である。
  • プーリー (ヒンディー語: पूरी) - チャパーティーを油で揚げたもの。揚げたては風船のように大きく膨らんでいる。
  • バトゥーラー (ヒンディー語: भटूरा) - 油で揚げる点は上述のプーリーと同じだが、精白した小麦粉から作られ、生地にダヒやバターを練り込み、一定時間寝かせる点が異なる。特に北インドでは、チャナマサラ(パンジャーブ風のヒヨコマメの煮込み)を付け合わせて食べる「チョーレー・バトゥーレー (ヒンディー語: छोले भटूरे)」が朝食用の露天スナックとして人気が高い。
  • ナーン (ヒンディー語: नान / ウルドゥー語: نان‎) - 醗酵させた小麦粉の生地を木の葉状に焼いたパン。タンドゥールと呼ばれる窯で焼くのが正式のタンドゥーリー・ナンだが、オーブンで焼くこともある。
  • ローティー (ヒンディー語: रोटी) - 広義にはインドのパン類の総称。ただし同じ名称で、地域により様々な種類のパンを指す。中でも多くの場合、ナンと同じ生地を円盤状に焼いたものを言う。
  • パラーター (ヒンディー語: पराठा) - チャパーティーの生地をのばし、油を塗り、折り畳むことを繰り返して油を層状に練り込み、薄くのばして焼いたもの。焼く前につぶしたジャガイモやカリフラワーを挟んだり練り込むこともある。パラタ、パロータともいう。

米料理

野菜料理

肉料理

飲物

スナック(北インド)

スナック(南インド)

インドの中華料理

インドの中華料理コルカタに住む中国人によって紹介されたのが始まりといわれる。インドでの中華料理の人気は高く、特に大都市でよく普及している。クミンやコリアンダー、ターメリックなどでインド人好みの味付けがされており、豚肉や牛肉はほとんど使われず、逆にパニールなどインド料理の食材が用いられる例がある。インドの中華料理店では炒飯炒麺春巻きチャプスイ酢鶏モモなどが食べられる。ドーサに炒麺など中華料理をはさむ例も見られる。

菓子

世界の料理への影響

インド系移民と在外インド人の活動の結果として、インド料理は世界各地に定着している。特にイギリスや旧イギリス領のマレーシアシンガポールフィジーペルシア湾岸、ケニア南アフリカトリニダード・トバゴガイアナなどでは、インド料理が地元の食文化に溶け込んでいる。チキンティッカマサラはイギリス生まれのインド料理で、イギリスの国民食の1つと呼ばれている。ゴア料理はポルトガルとその植民地に伝播し、マカオ料理などに影響を与えた。また、カレー粉の普及により世界各地にカレー料理が生まれている。インドを発祥とするムルタバは、貿易を通して東南アジアに伝わり、現在では同地域やアラビア半島で食べられている。日本では、中村屋のボースやイギリス海軍の影響になどにより、学校給食でカレーが取り入れられるなど、ラーメンと並びカレーライスが国民食となっている。全国各地では、その土地ならではの味付けや食材、コンセプトを用いた「ご当地カレー」も登場しており、日本独自の食文化となりつつある。

インド料理研究家

  • レヌ・アロラ
  • 香取薫
  • クマール・ニティ
  • ハリ・オム
  • ミラ・メータ
  • 渡辺玲
  • マドゥル・ジャーフリー
  • 辛島昇
  • ナイル善己

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 欧米ではブラッククミンシードと呼ばれる
  2. ^ India's Changing Appetites for Meat Challenges Traditional Values”. New York Daily News (2013年2月5日). 2013年4月26日閲覧。
  3. ^ Caste Discrimination and Food Security Programme”. Economic & Political Weekly (2005年9月24日). 2013年4月26日閲覧。
  4. ^ Uses of Tropical Grain Legumes: Proceedings of a Consultants Meeting, 27-30 Mar 1989, ICRISAT Center, India. ICRISAT. (1991). pp. 108, 335. ISBN 978-92-9066-180-1
キーマ、ムンバイにて

キーマカレーKeema Curry, Qeema Curry)は、インド料理の一つ。挽肉を用いて作ったカレー料理。

インドのキーマカレー

ヒンドゥスターニー語で「キーマー」(ヒンディー語表記 क़ीमा 、ウルドゥー語表記 قیمہ 、ラテン文字表記 qīmā)は、「細切れ肉」または「挽肉」を意味する。キーマカレーは「挽肉のカレー料理」というだけの意味に過ぎず、特定の調理法があるわけではない。広大なインド亜大陸では地域や宗教により素材も料理法も非常に種類が多く、現地では日本ドライカレーとほとんど同じようなものから、煮こんだスープ肉団子のカレーなど、日本で見るキーマカレーとは似ても似つかないものもある。

肉は何でも素材にされるが、インドでは宗教的な食の禁忌により、山羊もしくは鶏肉を使ったキーマカレーがほとんどで、牛肉豚肉を使ったキーマカレーは少数派である(インドにはイスラム教徒も10%ほどおり、彼らは牛肉を使うこともある)。素材は挽肉のほか、ギー(インドバター)、 タマネギニンニクショウガなどのスパイスが使われている。またトマトナスジャガイモヒヨコマメなどの野菜を加えたり、グリンピースを添えることも多く、ヒンディー語でキーマー・マタル(कीमा मटर)(挽肉とグリンピース)と呼ぶ。ライスチャパティとともに食べることが多いが、サモサナンに詰めて食べることもある。

日本では、スパゲティ・ミートソースや麻婆豆腐の類推、またそのこともあって子どももなじみやすい、加えて昨今のスパイスカレーへの注目といったさまざまな理由により、カレーの中でも人気である。

日本のキーマカレー

挽肉で作るドライカレーは日本で独自の発展をしているが、挽肉のカレーという点で一種のキーマカレーといえる。

日本に普及し始めた当時、羊やヤギ肉が手に入りづらかったため鶏肉を使ったキーマカレーが普及した。日本で初めて鶏肉を使ったキーマカレーを出したのは、1954年創業のインド料理店アジャンタといわれている。当時日本ではマトン肉が入手しにくく、その代用としてであった[1]

脚注

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出典

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

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銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

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GoCoop:インドの田舎の織工のための公正な市場

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1.2022年にはインドが人口世界一に(1)
2016年の人口が多い国の1位は中国(約13億8200万人)、2位はインド(約13億2700万人)、3位は米国(約3億2400万人)です。

世界の人口について知る - 日経 4946

人口: アメリカ合衆国 2022 - PopulationPyramid.net

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この写真は、オールグリーンのアンサンブルを着て風とモルディブの素晴らしい景色を楽しんでいるモウニを示しています. 星は澄んだ青い海のそばの木製のドックに立ち、ゴージャスな空を背景にクリックのためにポーズをとった. (Instagram/@imouniroy)

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Mouni の衣装は、フロント ノットのディテールが施されたグリーンのブラウス、急落した V ネックライン、ギャザーを寄せた袖口付きの半袖、上腹部をむき出しにした裾が特徴です。 スターはシルクサテンのトップに、流れるようなロングスカートを合わせた.(Instagram/@imouniroy)
2022 年 4 月 9 日午後 4 時 19 分更新

Mouni の衣装は、フロント ノットのディテールが施されたグリーンのブラウス、急落した V ネックライン、ギャザーを寄せた袖口付きの半袖、上腹部をむき出しにした裾が特徴です。スターはシルクサテンのトップに、流れるようなロングスカートを合わせた.(Instagram/@imouniroy)

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モウニはこのルックで髪の房を開いたままにし、グラマーのために、微妙なスモーキー アイ シャドー、まつ毛に重めのマスカラ、ヌード リップ シェード、チーク チーク、ツヤ肌を選びました。 可憐なゴールドのチェーンがビーチルックを引き締めます。 (Instagram/@imouniroy)
2022 年 4 月 9 日午後 4 時 19 分更新

さまよえる団塊世代

コンテントヘッダー

清好延氏逝去(72歳)…インド生活20年余…

30年来「インド仲間」「麻雀仲間」であった清好延氏が昨日逝去した。享年72歳。

清さんは、知る人ぞ知る「インド通」、それも一風変わった「インド通」であった。東京外国大ヒンズー語学科卒業後、インドとの付き合いは約50年、インド駐在期間は総計20年以上、インドビジネスに関係する日本人で最長期間インドに駐在した人だろう。

インドインド人が「好きで好きでたまらず」、昨年までインド生活を堪能していた。著書に「インド人とのつきあい方」や「インド商人ならこう考えます」など、独特の表現でインドを紹介した。ブログが一般化してからは、「インド博物館」と言うブログを開設し、写真を活用しインドを紹介した。この写真は迫力がある。

清さんに批判的なインド駐在経験者も多い。清さんには「思い込み過ぎ」が多い。清さんがインド人になりきり、インド人の目線でインドを見ようと努力した事が裏目に出たようだ。「日本人のインド感」は判るが、「インド人に化した日本人のインド感」には、普通の日本人には違和感が出てしまう。清さんは自説を変えることはなかった。自分のインド人生を達観していたようだ。

清さんには苦い思い出がある。麻雀で、芸術的なハネ満をダマでテンパッテいた時、カミチャがオープン・リーチ、それにリーチもかけていない清さんが振り込んだ事があった。当然、役満チョンボ、メンバーは唖然としたが、清さんは自分の手を説明しようと懸命であった。小生はその後、地獄に陥った。

インド人の使用人活用方法も、インド料理も、日常生活も、全て自分で体得したインドであった。普通の日本人に、真似は難しいだろう。

持病の関係で余り無理は出来ず、体力の許容範囲でインドを堪能する人生だったようだが…。

故人の冥福を祈りつつ、本ブログを使いお知らせ致します。告別式は319日、東京都国分寺市「東福寺むさしの斎場」

対ロシア、どうするインド…


ウズベキスタンで15・16日開催される上海協力機構首脳会議、世界は「露中(プーチン・習近平)会談」に注目しているが、同程度若しくは同程度以上に「露印(プーチン・モディ)会談」が重要になりそうだ

第2次世界大戦後の露印関係は「米ソ冷戦」「インド独立」「発展途上」と言う状況下、複雑な関係を築いてきた。

世界最大の民主主義国家と言われるインド、正式国名はRepublic of India(インド共和国)だが、1976年に改正された憲法前文では、Indian Sovereign Socialist Secular Democratic Republicと規定されている。インド・在主権・社会主義・世俗主義・民主主義・連邦共和国…。基本的に「議会制民主主義国家」であると同時に、「社会主義」の理念を取り入れた共和国…、理想を憲法に刻んでいる。2度と植民地支配されないと言う決意表明でもあろうし、「搾取」に対する対抗策としての「慈悲」も感じ取れる。「ヒンズー教の教え」が「社会主義」と言う表現になったのかも知れない。兎も角、インドは、人口14億人を超えた「摩訶不思議」な国である。

インド、第2次大戦後・インド独立後、インド独自の道を歩んできた。その独自性の一つがロシア(旧ソ連)との関係だろう。重要な項目を列挙すると、

武器支援(輸出)…、60~70%はロシア製と言われていた、最近はアメリカも積極的に攻勢をかけている。ロシアはアメリカが躊躇している「原子力潜水艦」のリースや「超音速巡行ミサイル」共同開発など、最先端技術兵器の売り込みに注力している。インドは「したたか」、米露両国を手玉に取っている様だ。
② 過去、旧ソ連とインドは「清算協定」=「物々交換」取引が主流であった。両国の輸出入に寄与した貴重な経験の蓄積がある。現代版マネーロンダリングのプロでもある。
エネルギー…。インドは原油85%輸入依存国。更にインドはロシアの原油・天然ガス・LNGへ投資・共同開発している。当然、ロシア産原油の安価輸入に走るだろう
原発建設…ロシアへの依存度を高めている。原発で事故が発生した場合、建設に携わった国が「必要な責任を負う」事がインド政府の許可条件になっている。米仏日は躊躇しているが、ロシアはインド政府と合意している。
ダイヤモンド・金…、インドは宝飾品の生産加工輸出国、その主材料であるダイヤモンド原石と金現物の大量輸入国でもある。ロシアは大量輸出国、「持ちつ持たれつの関係」にある。宝飾品工場(ダイヤモンド研磨)の中心地はグジャラート州スラート、モディ首相の地元である。当然、モディ首相は協力要請するだろう。マネーロンダリングは、中東の金融街と言う噂まで出ている。
等々、話題が多い。

ロシア、侵攻後数か月は経済制裁の実害は軽微だったようだ。「侵攻前成約分は制裁対象とされなかった」からだそうだが、これからどうなるか? 傭兵の給料や補償金支払いの負担も増大しているだろう。

今日明日の上海協力機構首脳会議、そしてG20、その次は米中間選挙、慌ただしい季節に入る。どんなフェイクの嵐が吹き荒れるのだろうか?

3度の印パ戦争、その後の印パ衝突危機…、国連でのインド批判に対し、インドを支持し、インドを救ってきたのは国連常任理事国である旧ソ連であった。今回ウクライナ問題で、国連のロシア批判決議案採決にインドは棄権、ロシアの立場を守った。だが、侵攻を支持している訳ではないだろう。

インドは、昔は「第3世界のリーダー」と言われたことがある。今はどうだろうか? それなりの国際的影響力はあるだろう。ロシアのウクライナ侵攻を支持するとは思わないが、インド経済も窮地の状態、「国の利」を得ることに集中するだろう。だが、それはロシアを助けることになるかも知れない。

第3世界でインドにフォローする国も出て来る。それがプーチンの狙いだろうが、インド国民はどう見るだろうか? 背に腹は代えられない? 

結果は明日明後日には判る。

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モウニはこのルックで髪の房を開いたままにし、グラマーのために、微妙なスモーキー アイ シャドー、まつ毛に重めのマスカラ、ヌード リップ シェード、チーク チーク、ツヤ肌を選びました。可憐なゴールドのチェーンがビーチルックを引き締めます。 (Instagram/@imouniroy)
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  1. ^ 『カレーのすべて』柴田書店、2007年。ISBN 978-4388060221 p27

関連項目

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清好延紹介

清好延清好延(せい よしのぶ)略歴
清好延
東京外国語大学インド・パーキスタン語学科卒業。三菱商事入社後、鉄鋼部門でインドに3回赴任。退社後、日印調査委員会事務局長、JICA派遣でFICCI(インド商工会議所連盟)勤務、三井金属現地法人の顧問、三井化学のインド工場立上げ支援等、第一線でインド駐在20年の活躍。現在、株式会社ネクストマーケット・リサーチ顧問。

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7月16日、今日はミニヤギさんといっしょに、竹と農のスクール「レモンの学校」のプレオープンです。竹チップ堆肥を使った無農薬有機栽培法を通して、とびしま地域のレモン栽培を盛り上げようと多くの若者たちががんばっています。菅原レモン園において、実際にレモンの樹を見ながらこれまでの取り組みや栽培についての質問、収穫体験、夏芽の芽かき、食べるレモンの試食などを行いました。その後、場所を移動してパワーポイントを使った、レモンの植え付けから販売までのプロセスについて聞いていただきました。レモンのお話をいっぱいさせていただき、今日も充実した1日でした。写真の説明はありません。食品、アウトドアの画像のようですフルーツの画像のようですフルーツの画像のようです写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。
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銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

シュリパールの弟の結婚披露レセプション

2007/2/12

シュリパールと言う運転手の弟の結婚披露レセプションに招待された。グルガオンから20分くらいのアーヤナガルと言うところである。

2日間の雨で足場の悪い中、細い舗装のはげたいわゆる笑窪道路を走り着いたところが4階建ての立派なお屋敷である。恐らく20位部屋があると思われる。

グランドフロアの一室に案内された。ベッドとソファと片隅に置物がある部屋で、入り口にも利用できるようになっているようだ。停電を考慮してかそれとも電力のキャパの問題なのか、自家発電機まで用意されていた。

門構えも立派な4階建ての豪邸である。左奥が4階になっている。
次々に親、親戚、兄弟、奥さん、子どもを紹介された。
親父さんである。飾らない朴訥なじーさんである。
恥ずかしがり屋の奥さんである。
テレビの影響を受けていると見られる親戚の坊主である。
何となく親類とわかる顔つきである。
仲のよい息子と娘である。
本人と同僚の運転手である。
兄弟達である。
暖かい甘いミルクと、コテッジチーズのポコラ(天ぷら)、グラブジャーマン、バルフィー、林檎と葡萄が先ず奨めれれた。

次に、チャナ豆(ヒヨコマメ)のカレー、コテッジチーズとグリンピースのカレー、ミックスベジタブル(トマト、カリフラワー、ジャガイモ、ピーマン等)のカレーに、グリンピース入りのプラオ(炒めご飯)、プーリ、ナンが奨めれれた。何れも、野菜のカレーであるがそれなりに美味しいものであった。

館長の皿である。 プラスティック製の皿の上に載っているのは、コテッジチーズ、ヒヨコマメのカレー、グリンピースの炒めご飯、膨らみの悪いプーリである。

ドラム缶を改良したタンドールと言う壷焼きようの炉で焼いた出来たてのナンは素朴で旨かった。
親父さんと話を少しした。ラールジーラール(Lalji Lal)と言う名前で70歳とのこと。息子6人で、今日は最後の息子の結婚レセプションとのこと。今日のレセプションに客を1000人呼んでいること。場所が足りないので前の家を借りたという。

前の家のベランダである。山盛りの盛況で食に群がっていた。 その辺りではかなりなの知れた大きな家であるようだ。ミルクの販売で産を成したという。隣近所の牛からミルクを集め、金持ちの家に個別販売をしてきたと言う。

男の子の誕生パーティ

2007/3/6

館長の勤め先のスタッフの男の子の誕生会の招待状をいただいた。生後6ヶ月のソハム君の生誕と其の将来を祝福する会である。
 
封筒を見ると男の子どもの写真が左下にあり、何となく子どものパーティとわかる・・
虎に乗ったラクシュミ女神がカードの表紙である。
カードの中身である。真ん中は象神ガネーシュで主役らしい。 真ん中両端の万字はガネーシュのシンボルである。 中央に太字で印刷されているデバナガリ文字がソハム君の名前である。
それで、館長はソハム君のパーティに行ってきました。

12時前に現地に行くと、結婚式の楽隊と見まごうばかりのえんじの服を着た一行が女性インド中心で行進していた。路地を入った奥まった一角の住宅の庭にテントを張り巡らして、パーティ会場となっていた。

親類家族約250人二招待状を出したと言う。そのくらい男子誕生はめでたいことと言うことであろう。日本の100日祭と同じように、百日を祝い活き伸びることが確認した後このようなお披露目のパーティをやるようである。
孫に囲まれたおじいさん。左が6ヶ月のソハム君である。
左から、奥さん、おかぁさん、本人である。奥さんは恐らく結婚式以来の正装のサリーである。
右端に見えるのが大学教授である。彼と瞑想について色々話をして、面白かった。物理の教授でありながら、瞑想についての研究もしているところがインドである。
普段はガレージに使う前庭にテントを張り、昼飯の準備である。
右は会社の同僚である。
青十字

2007/5/29

インド人が動物との共存を都会でもやっていることはしばしば経験する。ニューデリーにも再三の政府のお触れにもかかわらず、のっそりと牛や水牛がいるし、屋根つたいに跳梁する猿も見かける。衆生皆隣人と言うか、気にしないのであろう。

最近の新聞記事である。

警察が野良犬を保護
市内裁判所が命令

21日付のヒンドゥスタン・タイムス紙によると、デリー市内の裁判所は、イースト・オブ・カイラシュで虐待されていた二匹の野良犬に対して街を自由に歩き回る権利を認め、警察に対してこの二匹を保護するよう命令した。
 これはイースト・オブ・カイラシュに住む女性が二匹の野良犬が、隣近所の人によって不当に虐待を受けているとして事態の改善を求める陳情書を裁判所に提出した。裁判所判事は「地元警察と自治体の協力により、この二匹の野良犬の保護を確実にし、残虐行為を行った者は直ちに裁判所に召喚される」と述べた。
 この決定に対して同紙は「警察はデリーに生息する動物すべてを保護するつもりなのか」と批判の声を挙げている。(日刊インドビジネス)

動物保護に行き過ぎがありそうである。BSEに罹った牛をインドで余生を送らせようと言う議論もあったがこれはさすがに立ち消えとなった。

最近、NH8で青十字の印された車を見た。動物用の救急車であった。
 
モンスーンの雲

2006/8/1

モンスーンの雲は低くて、早い。フラットのベランダで観測していると、時間のたつのを忘れるくらい面白い。日のあたる場所がくっきりと識別できる。その動きがめまぐるしいくらいである。

低い雲は遠くからその下は雨と分かる。
 
セカンドサマー

2006/10/4

モンスーンが明けると、この辺りではセカンドサマーとなる。朝晩は多少涼風も吹くが、日中は40度にならないまでも、30度の後半となる。かなり暑いし、モンスーンの湿気を空気が持っているため、不快感がつのる。朝起きると水蒸気でもやっている。

子供達は涼を求めて秘密の場所で水浴びをする。用水の一角を秘密基地に水浴びをする子供達のスナップである。
用水の水は、ヤムナ川の水に較べると澄んでしる・・
水着など異世界のものであろう・・自然流が一番・・
どうもカメラに気づいたようである・・
季節が変わりました・・冬から春(?)へ

2007/2/2

日中の温度が30度を越してます。既に冬はもう朝早くに一寸名残を残しているだけです。植木園の花も菊から大きく変わりました。日本で言えば、春の花でしょうか。
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太陽は銀河系の中では主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。

ナレンドラ ダモダルダス モディ नरेन्द्र दामोदरदास मोदी Narendra Damodardas Modi 1950 9 17生 18代インド首相 前グジャラート州首相

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。