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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

 

銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

キンレンカ(金蓮花)

2007/3/27

科 : ノウゼンハレン科 Tropaeolaceae
属 : ノウゼンハレン属 Tropaeolum
種 : キンレンカ T. majus
葉が高く花を隠すことがあるが、マリーはその際には葉を切ったりしているのを視て、館長は何と残酷なと思ったことである。

最近の品種は、葉より花が高く出るようにも改良が行われたようである。
英語名を書いてくれたのはリッチモンドパークの専門家である・・
リッチモンドパークの花です・・
リッチモンドパークの花です・・
アースタ・クンジの花である・・
ダリア

2007/2/2

郊外の植木園の主流の花が菊からダリアに変わりました。
薊芥子

2007/1/29

薊芥子(和名)カトカル(ヒンディー)

工場の周りに生えている。葉を見ると薊かなと思わせる。葉先が鋭い棘の形状をしている。花は芥子の花に似ている。芥子科である。
まさに薊を思わせる形状である。
花が一寸違うようである。
6~8センチの黄色の五弁の花である。めしべの下には既に棘のある実が作られている。実は芥子坊主ほど大きくはない。
ピンクトランペットツリー

2007/1/12

ネルーパークを散歩してたら、ピンクの花に気がついた。早速カメラ小僧をやった。デ調べてみると、英語名pink trumpet tree(学名Tabebuia heterophylla)であることが判った。原産は南米だという。

この時期ピンクの花は少ないので、あえて掲載することにした。少々花の盛りは過ぎているようだ。

2006/12/4
2009/1/22追加

2009/1/22追加
ニームラナのシヴァ・オアシス・ホテルは、庭の手入れの良いことで評判です・
・今の季節、菊の鉢植えが見頃です・・

今年は菊を飾っている場所が増えたようである。オベロイホテルの門から玄関まで菊尽くしである。

郊外の花屋でも、聞くが大きく幅を利かしている。
オベロイホテルの車寄せ
時期をそろえて咲かせるオベロイ庭師の腕の見せ所・・
郊外の花屋である。咲く前の菊を用意している
蕾もあり買い時の鉢植えである・・
満開である・・所狭しと並べている・・
オベロイのロビーの菊が見事でした・・
管物もインドでは盛んに育てられています・・
 
百合の花

2006/9/6
2006/10/4追加

インドでは百合の花が高級とされる。従い稀少で値段も高い。

花屋で売っているのは、グラジオラスの切花が多く、最近はバラが出始めた。住宅街の花屋には百合は置いてない。

インドの百合は、日本の鬼百合や姫百合とは違い、赤系の派手な感じの物が好まれるようで、清楚と言う感じはしない。

今日は大使館とオベロイホテルでカメラ小僧をやったものである。
アグラのムガールシェラトンのロビー
飛行場に一番近いと言われているラじソンホテルのロビーマネージャーのデスクの上・・カメラを構えると、ロビーマネージャーはすかさず席を立ち、どうぞと写真を撮らしてくれた・・訓練されている・・
ラジソンホテルのロビーは、さすがに綺麗である・・タージマハルホテルのロニーロボがGMになって変わった・・
ネループレイスのインターコンティネンタルホテルのロビーに活けられたものです・・
色も形もなかなかなものです・・
この種の色は一寸珍しい・・
 
ニーム

2006/7/27

ニームの和名はインド栴檀である。栴檀は双葉より芳しの栴檀であると言いたいのだが、諺の栴檀は、インドでも芳香を放つ木として名を馳せている白檀のことだと言うからややこしい。どうも、実物を視認しないで文献で物を考え判断する文化人のせいであろう。百聞は一見にしかずと言うのに・・

インドではニーム、ビーバル(インド菩提樹)、バニヤンの三大せい聖樹としてあがめられています。この三種の聖樹葉何れも樹高20メートルを超える大木に育つ木で、その気の根元には、壇を設けて、人々が集い、祠を儲けて神々を祭ったりします。

ニームの豊かな茂みを通ってきた風は、頭痛を治すと信じられている。近代になりニームの、葉、皮、実、樹液等の成分を分析したところ医療用として、各種有効成分が含まれていることが分かり、古来行われてきたアユールベーダの医学が再認識されている。特にアメリカでは各種のヒーリング商品がニームを原料として開発されている。

日本では、ニームオイルがアブラムシ退治に使われる程度で、いまだ本格的に紹介されていないようである。

ニームの小枝を20センチ程度に切り、それを噛みながら歯を磨く習慣がインドにはあるが、それは歯磨きと樹液の服用との一石二鳥の習慣であったわけである。奈良の東大寺二月堂修二会、お水取りの際に、易の算木のようなものに歯形を付けるような所作があり、その意味を尋ねてインドまで出向いた高野山大学の僧職の教授が、カルカッタ(今のコルコタ)の朝の町で、人々がニームの小枝で歯を磨いているのを見つけて、小膝を叩いて、お経を上げる前に口を清める儀式をやることを意味していたのかと喝破した。釈迦の時代からの習慣が奈良の二月堂まで引継がれた縁の不思議を感じる。

一時期日本でもニームの薬効が言われ、新葉をダンボールで持ち帰る御仁がいた。曰くニーム茶として服用するとのことであった。苦い煎じ薬である。

ニューデリーでは、市内の並木にニームが使われているところが多くあり、パーリアメント通り等が見事である。

京都の御所の通用門の前に、ニームの木が5本植えられているが、誰が何時どういう経緯で植えたのであろうか、館長は首をかしげた。
ニームの街路樹のトンネルです。インドには1380万本のニームが育っているそうです。誰がどうやって数えたのでしょうかね?
ニームの新芽紅葉です。
美味しそうでも家畜に食べられないのは、葉が苦いせいでしょうか。イナゴの大群が飛び去った後に青々としていたのがニームの木でそれを見つけたドイツ人の昆虫学者がニーム成分の近代的な分析を始めたとか。
 
睡蓮

2006/7/16

デリーの東隣ヤムナ川の対岸は、UP(ウッタル・プラデシュ=北州)州である。そこにUP州は工業団地を作った。NOIDA( New Okhla Industiral Development Authorityの頭文字をとったもので今は都市名となっている) である。さらに、発展して、Greater NOIDAが出来た。

ホンダの4輪の工場がそこにある。そのすぐそばに、JP Green Golf場がある。水を巧みに使ったゴルフ場と自負しているが、今日も池ポチャを3回もやり、しかも暑さと湿度で全くの集中力を欠き、何が巧みだと逆ねじ状態であった。こんな気温と湿度のゴルフは久しぶりで途中でやめようかとも思った。15人の参加した会でべスグロが96と言うのであった。いかに集中できない、罰ゲームみたいなゴルフ会であった。

収穫は唯一、そこの池の一つに熱帯睡蓮が今は盛りと咲いていた。熱帯睡蓮の特徴は、日本やモネの書いた睡蓮と異なり、花が水面に浮かぶのではなく、ニョッキリ立ち上がって咲くところである。色は青紫と黄色の二色であった。

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銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

 
ブーゲンビリヤ

2006/6/21
2006/7/3追加

昔々館長がカルカッタ(今ではコルコタと言うらしい、当時の日本総領事館はカルカタと称していた)に駐在していたとき、約100人ほどいた日本人はゴルフを楽しんでいた。色々なゴルフの会が開催されていた。

日本人会、バラサブ会(バラは大きいというインド語、サブはサーヒブと言う旦那を表すインド語の短くなったもので、所長、支店長、主幹者の会)、機械懇話会、鉱石懇話会、鉄鋼の会、メンサブ会(女性の会)等などである。その各々の会が毎月開催されて、カップが争奪されていた。

ゴルフの下手な館長でも、七年間の滞在中に二桁のカップを手にすることが出来た。ゴルフ場は、ローヤルカルカッタクラブと、トリガンジクラブの二つが本チャンの立派なゴルフ場で、小さな会はマイダン(広場と言うインド語で市の中央部に位置した広大な広場で、競馬場、クリケット場、ビクトリアメモリアル、エスプラネードと呼ばれる市電、バスのターミナル、9ホールのゴルフ場二個、柔道場をはじめとする各種スポーツクラブ等などの施設を包含していた。)のフォートウイリアムゴルフコースで開催されるのが通常であった。

毎週何かの会があり、土日はもちろん時によれば平日の午前中に食い込むこともあった。それでも足りないとはかりに、初心者たち下手が集まって、一つの会を作った。

その会がブーゲンビリヤの会であった。館長も誘われたが、一応日本人会も優勝しているのでと言う理由で、趣旨に沿わないと言い張り入会を断った。

デ、心の中で、「ブービービリの会」になんか入れるかと親父ギャグをつぶやいたのであった。

2月頃から盛んに咲き始めたブーゲンビリヤが、モンスーン前の今咲き誇っている。

通常はブーゲンビリヤは垣根などに使い、思い切り自然にまかして育てるのだが、珍種は鉢植えで鑑賞もするようである・・
此れは一本の木で、色が違う鉢植えである。
ブーゲンビリヤがまた元気に咲き出した。眺めてみると奇妙な植物である。花と見えるのは葉っぱが色変わりしているのである。世界三大奇花の一つに入れている外人を見たことあがる。それにしても枝につく殆どの葉を花と見紛う様に変化させる業は、只者ではない。
実は花はこの小さなものがそうである。
まだ花にならない葉っぱである・・
見事な落花である・・
上を見るとこのように2色の木が入り混じって咲いていた・
立ち上がるように作られている・・
ブーゲンビリアは11月ごろから花をつけ始め、雨季まで花盛りである・・
2月からと前に書いたが訂正である・・八重である・・
白は清楚な感じを与える・・
珍しい色は劣性なのであろうか、あまり盛んには鼻をつけないようでもあるが・・
懸崖つくりと言うところか・・木の性質を生かした作りである・・
ゴールデンシャワー

2007/5/18

酷暑の北インドの4・5・6月の最後に咲く花が、ゴールデンシャワーである。Golden shower tree、 Indian Laburnum、 Amaltas (Hindi)と呼ばれる。その実の形状から、モンキースティックと呼ばれたりする。

黄色い満開の花の下に立つと、世界が黄色になりぼうっとしてしまう。実はタイの国花がこの花だと言う。

和名はナンバンサイカチと言う。綺麗な黄色の英が特徴的である。館長の好きな花である。今年は異常に早く、今が盛りと満開である。
マメ科の5弁花である・・花の中心からモンキースティックが既に形となっているものもある・・
緑の葉っぱとのバランスの良い木である・・
英の形と型が見どころである
これだけ花をつけると美得である・・
 
咲き始めである。元から花房の先に向って咲いてゆく・・蕾は丸く膨らみ可愛い感じである・・
花房の形状がわかるのは花の数が少ないのである・・
花房が寄り集まり、塊を作る・・
木下に入ると、まさに黄金のシャワーを浴びている感じとなる・・
何もかも黄色である・・
樹形を・・まだ若い木である・・
住宅街のゴールデンシャワーのトンネルである・・
 
百日紅(サルスベリ)

2006/6/24

今が盛りと咲いています。学名にindicaと入りながら原産は中国であるというはどうしてだろうか?
リッチモンドパークの植物

2007/1/26

今朝リッチモンドパークの庭を30分くらい歩いた。そのときの植物である。名前はこれからポツポツ調べるとしよう。
百日草

学名Zinnia elegans。和名の別名は浦島草、長久草で何れも花持ちが良いところからの命名である。館長は乾いた感じのこの花をあまり好まない。最初からドライフラワーか紙製の造花のような印象だからである。花には罪がないのは分かっているが、花はやはり一寸しっとり感が欲しいと言う好みの問題であるからご容赦あれ・・

インドの庭園でも花持ちが良いのでよく植えられている。
トディーパーム

英名Toddy Palm、学名 Caryota Urens、ヒンディ名 Mariと言う。今は幼木で、実がなっていないので一寸寂しい。近所のマーケットの周辺に成木があるので後で紹介しよう。

椰子の仲間である。
スイトピー

ニザムディーン(デリーゴルフクラブの東側で回教徒が多く住む。同名の駅がある。)の花壇で、スイトピーを育てていた。

当時GK-Iに住んでいた館長の家族は、そこで花を見たり、生えている花を買ったりしたものである。もう20数年以上も前の話である。

当時小学校の娘が、花壇の世話をするマリー(庭師)にストピーを買いたいと言うと、一本5ルピー(13円)だと言う。で、娘が5本欲しいと言うと、思いっきり根元の方を切ってくれた。普通は、20~30センチのスイトピーの茎を切り取るのだが、彼女が買うと全長80センチ位のものを切り取り、それを一本と言って数えてくれた。そこには、10本以上の通常の売り方のスイトピーがついていた。5本買うと、家中がスイトピーで輝いたものである。

そこの花壇のスイトピーは見事なものであった。館長のフラットの庭のスイトピーはそれに較べると、一寸貧弱であるが、春を告げる花でもあり娘を思い出したりして、館長はカメラに収めた次第である。
小葉(コバ)のランタナ(Lantana)

小手毬のような半球状に花をつける可愛い園芸用の花である。偶々写った蟻がその花の大きさを暗示するが、花の直径は数ミリである。
マリーゴールド

マリーゴールドはインドでは神に捧げる花として使われる。インド式のレイにもよく使われる。

お寺の周囲ではマリーゴールドを山のように用意してお供え物として客待ちをしている縁起物の花である。お寺のマリーゴールドは萼のすぐ下で切られ、茎は全くついていない。花は必ず切ったら活けるものとの日本の習慣とはかけ離れている。日本人は切り花を持つとき必ず花を下に逆さまに持つが、インド人は頓着しないようである。

法華経に花が降る表現があるが、その花もどうも茎はついていないようである。花だけが即物的に天から降るのである。花びらが降る表現も使われるが、此れは花が枯れることを暗示していて美しく描かれていても、天人五衰ではないが一寸考えさせられる。日本でも尊い僧侶が歩く前を、紙で作った金銀の花びらを蒔く形が行われたりするが、此れもむしろ空しさを感じる館長である。

日本人が描いた天から花が降る図には茎のついた花があったのを記憶しているが、それも妙な形である。

切花は必ず活ける日本と、花びらや花そのものだけを利用するインドは一寸距離があるように感じる。
ロイヤルパームツリー

ロディ公園のロイヤルパームを紹介した。此れもそのように大きくなることを前提に植えられている。
棕櫚の仲間

日本の棕櫚は椰子の仲間である。棕櫚の仲間の種類も多く、日本の棕櫚を使って蝿叩きを作った記憶があるが、ここの棕櫚では蝿叩き日本は大きすぎるようだ。
プルメリア

英語名をテンプルツリーと言う。東南アジアや南アジアのお寺の庭によく植えられていることからついた名だと言う。色は赤白ピンクと色々あるようである。葉先も丸みを帯びたもの、剣先のようにとがっているものがある。派手な花ではないので、何となくひそやかに裏庭などに植えられているのが似合う気がするのは館長の偏見であろうか。

一緒に写っているのは、インドの国旗をモティーフにした風船である。インドの法律によると、インドの国旗をモティーフにして商品などを作ってはいけないとあるそうだが、アメリカ国旗をそのまま使った短パン等がある世の中であるからこんなものは屁でもないか。
トディーパームは成長すると素晴らしい椰子になります・・
特に実がつくとゴージャスと言う感じです・・
リッチモンドパークに住む農学者がいる。彼の好意で花や植物に名前の名札がつけられた。館長には天の助けである。早速和名キンギョソウの学名が披露されていた。もう春ですね・・花には蝿や蜂が次から次へと訪問してました。
Antirrhinumがキンギョソウの学名です。
蜂の訪問です・・
此方は蝿の訪れです・・
花の形が面白く、なかなか植え込み用に良い品種ですね・・
オオカッコウアザミは、和名はあっても日本では珍しい部類の花らしい。此れがリッチモンドパークの庭に植えられていた。学名はAgeratum conyzoidesである。日本ではオオカッコウアザミよりアゲラタムのほうが通りがよさそうである。
バーベナ(クマツヅラ)は可憐な花である。幼児が顔を付ける様にして覗き込んでいるのを視て、館長は思ったのである。彼女にはとても大きな花に見えているのだろうと。周りから咲き出し頂点を目指す。途中では花がリング状になる。此れも可愛らしい。
ラークスパー(Larkspur)は和名がヒエンソウと言うらしい。花の形が飛んでいるツバメに似ているとのことで・・
ハイビスカスである。 転んで頭を打ったときに、スキーで穴に落ち込んだときに、館長は正常
に頭が働くかどうかのチェックをする。

そのときに、九九の7の段を諳んじる。そして次にこの花をイメージして名前を口に出す。両方できると、頭は大丈夫と判断する。

それからやおら骨は大丈夫か、出血はしてないか、何処か痛くないかチェックをする。

ハイビスカスはその頭チェックの大事な花である。

海辺でもないのに、此処の庭に見つけた。デリーゴルフコースにも咲いている。
マリーゴルドである。なぜマリーゴールドが神の前に捧げられるのかと聞いたところ、安くで庶民にも神前に供えられるからだと言うインテリがいた。そうかもしれない。

橙色と、黄色とあるが、橙色のほうが派手である。中島氏のパーティは橙色で統一されていた。
モンシロチョウが羽を休めている。それだけの写真である・・
砂埃をかぶった植物

2007/1/11

この辺りは冬の間は雨の降ることは殆どまれで、ラジャスタンの砂漠から運ばれてきた砂埃と、舗装の剥がれたところに露出した土埃と、排気ガスと、極度の乾燥の相乗作用で、植物体は想像を絶する拷問を受ける。

人間もそれに耐えて季節の移るのを待つ。苦しい乾季である。乾燥湿疹と気管支炎になる人がいる。

館長としては、この種の写真を撮ること、又紹介することはあまり気が乗らないのだが、真実を伝えることは必要であろうと、あえて掲載した。

インドの車の後ろに、よく「Truth is god」書いてある。
この季節にも花を咲かせ続けるブーゲンビリヤの花も葉っぱも気の毒なくらいの砂埃をかぶっている・・
今まで何回も紹介したMGロードである。プリメリアの葉は特に目立つ・・バイクに乗る人も月光仮面スタイルである・・
Truth is god」と言う言葉はマハトマガンディが最後に到達した神である。
昨日から昨夜にかけての雨で、名誉挽回のプリメリアである・・それでもしぶとい砂埃はまだしがみついている・・(2007/2/11)
ダツーラ

2006/11/30
2007/7/5追加

ダツーラの続き

梅雨の国分寺を歩いていると一寸見慣れた花を見つけた。何処でと言うと、インドのバワルの館長が通っていた工場地帯や、グルガオンで見かけた花である。ダツーラである。

ネットで調べると
「アメリカ朝鮮朝顔 (アメリカちょうせんあさがお)
・茄子(なす)科。
・学名 Datura meteloides
Datura : チョウセンアサガオ属
meteloides : 金属のような
Datura(ダチュラ)は、この植物のヒンズー名
「dhatura」から変化した名前。」
とある。

館長がインドのワーカーから聞き取ったダツーラと言うのが元の名前であると知った。

日本がアジアの一端であることも実感した次第である。
館長は清涼感のある花とインドで書いたが、梅雨に濡れた花は清涼感に満ち溢れた感じを受けた・・砂漠に近いバワルに咲くダツーラと梅雨に濡れた朝のアメリカ朝鮮朝顔とでは一寸と世界が違いすぎる・・大体和名が気に入らない・・どちらもどちらである・・
昨日映画「キサラギ」を女房と見た・・なかなか良い映画で楽しめた。
爆笑した。
何故か今思い出したので、ここに書いておく・・ブログスタイルになっ
てしまったか・・
 
ダツーラは評判の良くない植物である。

匂いが不快で、草汁が皮膚につくと痒いという。羊や山羊も敬遠するという。実は食用にも何もならない。

昨日、グルガオン、デリー出身のオフィサーに写真を見せたが、誰も名前を知らなかった。今朝、始業開始前に、この辺り出身の現場雇員に聞いたところ、一発で、口をそろえて「ダツーラ」と教えてくれて、前述のコメントを添えてくれた。

此花は朝方咲き始め、11時ころには萎んでしまう朝顔みたいな習性である。花は夕顔を小さくしたような形で、清楚な感じがする。

9月頃から咲き始め、未だに咲きつづけている。一年草である。
 
しぼみ始める寸前です・・花の直径は7~10センチくらいです・・地味で清楚な感じがします・・
人間にとってはいやな匂いも、飛蝗には・・蓼食う虫もですかな・・
左上は実です・・

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

ドゥルガ・プージャ

2007/10/19

ドゥルガとはシバの奥方で、破壊の女神である。

幻想世界神話辞典 http://www.jiten.info/dic/durga.htmlから

「ドゥルガ  durga 

インド神話の女神。シヴァの妃。ドゥルガは「近づき難い」の意。もともとは彼女に敵対する悪魔の名であり、悪魔を倒した時、記念してこの名を名乗った。

マヒシャによって天界が占領されてしまった時、神々が反撃にでるため、力を集中して吐き出した、憤怒の炎の中から誕生した。

その姿は十本の腕を持つ美女で、マヒシャ討伐のため、シヴァの三叉戟、ヴィシュヌのチャクラム、アグニの投げ槍、ヴァーユの弓、ヴァルナの法螺貝、インドラのヴァジュラなど様々な武器を与えられた。

そしてヒマヴァット神から騎乗用に虎をもらい、マヒシャに戦いを挑んだ。

山が砕け、海水が陸地に溢れ、空の雲は散り散りになるほどの戦いの末、マヒシャの首を切り落とし戦いは終わった。 」


その勝利の場面を演出して正面にすえお祭りをするのがドゥルガ・プージャである。そのテント張り及び神像群をパンダールと呼ぶ。プージャとは祈り・祭りの意味である。

館長は丁度入魂式の最中にこのパンダールを訪れた。赤い敷物の前で、靴を脱ぎ、本尊の前で手を合せ、賽銭箱にそれとなく十ルピーを入れ、写真を撮った。とがめる人はなく、むしろ歓迎の雰囲気があった。

勝利の場面を作ると、まず入魂式をする。そのあとでおならいが行われる。もちろん野菜のカレーである。
 
入口にはデザインをしたところの名前が・・
パンダールの入口には、供物を売る店がある。
パンダールの正面である。竹と黄と紅白の木綿のきれで作り上げられている。雨の降らない前提である。
パンダールの中でマリーゴールドを使っての花輪つくりに少年が集中していた・・
御本尊たちである。派手な極彩色に描かれている。
入魂式を行うブラーミンたちである。
しきりにマントラを唱えるブラーミン・・
神像の前には護摩壇が作られている。
本尊の前は左右に仕切られ、左が男性の座る場所、右が女性の座る場所となっていた。その女性の一番前に、女性たちが線香あげ祈る場所が作られていた。
おならいの準備をする男たち。女性は加わらない。まな板は使わず手にナイフや包丁を持って野菜を刻む。ジャガイモ、カボチャ、ニンジン、ナス、カリフラワーなどが食材として使われていた・・
日本寺

2007/5/4

ニューデリーの南に日本寺がある。

住所は、
D-137, East of Kailash, New Delhi - 110 065
phone: 91-1126227453
である。

寺の正式な名前は、Ladhakh Shanti Sutupa、World Buddhist Centre
とある。通称、日本寺、あるいはWorld Buddhist Centre で通じるようである。

日本寺に泊まることも可能である。(有料だが安い。)

そこの住職と言うか寺守が、中村行明さんである。彼の名刺には、ブッダ会会長とある。 行明さんとは長い付き合いである。五行大儀で有名な、お父さんの中村璋八先生とも縁あって知己を得ている。

行明さんは、今年の日印交流年は、大活躍で、彼の広い人脈の中から、梅の花、森山良子さんなどなどがインドへやって来た。「なだそうそう」のヒンディ語訳をしたのも彼である。才人でもあるようだ。
日本寺とは思えないモダンな正面である・・高名な建築デザイナーの設計だと聞いた・・
本堂の釈迦本尊である・・
ステンドグラスが美しい・・
ヒンディ語のナダソウソウを歌ってくれた・・ギターは見えるところに5本あった・・キーボードも使うようで、机の横にいつでも使えるように用意してある・・
心の広い人である・・寺の中には、藤井日達上人の「諸国撃天鼓」の掲額ある・・
プラサド

2007/3/27

Prasadと言うヒンディ語の単語がある。プラサド大統領のように人の名前にも使われる。
この意味は、神の前にお供えする供物、贈り物、祝福、好意などである。

神に供える供物もプラサドなら、供えたあとのお下がりの縁起物の供物もプラサドである。道路際にテントを張り、飲み物、食べ物を振舞う宗教的な行事が良くあるが、そのときの食べ物などもプラサドと呼ばれる。此れはあらゆる宗派の行う行事でもあり、シク教徒のプラサドが音楽入りで派手である。

今日は、MH8(国道8号線)のダルヘラを過ぎた例のシャニチャールの寺でこのプラサドが振舞われた。道路の両側に、お盆に載せたスージーハルワを車を止めてみんなに配っていた。館長の運転手のサリームは、4っつ呉れと同僚の分まで貰っていた。館長は上品に自分用を一皿いただいた。美味しかった。

この場合の日本語訳は「振る舞い」が良いのであろうか。

小学生のときに東京の阿佐ヶ谷で、大塚ワカメのお稲荷さんで年に一回振る舞いが行われ、その日は自由に工場内に入り色々な食べものの振る舞いを受けたのを思い出した。

更に、館長の祖父の丑松が健在であった当時、富士宮でやはり年に一回お稲荷さんの振る舞いをしていたことも思い出した。振る舞いの起源もインドだったのであろうかとふと思った。
道行く車を止めて、プラサドを差し出す。ボランティアであろう。
例のチンバのサニー土星神(サニチャール)を祀った寺と言うか祠と言うか・・
誇らしげに交通整理をするサドゥーである。
信者の寄進のスージーハルワの賄どころである。サドゥーも猫の手をやっている。
スージーと呼ばれる粉を原料としたハルワである。かれた木の葉を成型したお皿は自然にやさしい伝統的なものである。多少油がきついが美味しいハルワであった。此れだけのものを用意して、寄付などを一切強要しないのがインド流である。堂々といただけばそれで良いのである。

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

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プラサド

2007/3/27

Prasadと言うヒンディ語の単語がある。プラサド大統領のように人の名前にも使われる。
この意味は、神の前にお供えする供物、贈り物、祝福、好意などである。

神に供える供物もプラサドなら、供えたあとのお下がりの縁起物の供物もプラサドである。道路際にテントを張り、飲み物、食べ物を振舞う宗教的な行事が良くあるが、そのときの食べ物などもプラサドと呼ばれる。此れはあらゆる宗派の行う行事でもあり、シク教徒のプラサドが音楽入りで派手である。

今日は、MH8(国道8号線)のダルヘラを過ぎた例のシャニチャールの寺でこのプラサドが振舞われた。道路の両側に、お盆に載せたスージーハルワを車を止めてみんなに配っていた。館長の運転手のサリームは、4っつ呉れと同僚の分まで貰っていた。館長は上品に自分用を一皿いただいた。美味しかった。

この場合の日本語訳は「振る舞い」が良いのであろうか。

小学生のときに東京の阿佐ヶ谷で、大塚ワカメのお稲荷さんで年に一回振る舞いが行われ、その日は自由に工場内に入り色々な食べものの振る舞いを受けたのを思い出した。

更に、館長の祖父の丑松が健在であった当時、富士宮でやはり年に一回お稲荷さんの振る舞いをしていたことも思い出した。振る舞いの起源もインドだったのであろうかとふと思った。
道行く車を止めて、プラサドを差し出す。ボランティアであろう。
例のチンバのサニー土星神(サニチャール)を祀った寺と言うか祠と言うか・・
誇らしげに交通整理をするサドゥーである。
信者の寄進のスージーハルワの賄どころである。サドゥーも猫の手をやっている。
スージーと呼ばれる粉を原料としたハルワである。かれた木の葉を成型したお皿は自然にやさしい伝統的なものである。多少油がきついが美味しいハルワであった。此れだけのものを用意して、寄付などを一切強要しないのがインド流である。堂々といただけばそれで良いのである。
ドゥルガの化身

20071/9

ナショナルスクールオブドラマの入り口左に、ドゥルガの化身を祭った祠がある。祠といっていいかどうか迷うが一応結界を張る態勢になっているので祠と言おう。

本尊の回りには、象頭のガネーシュを含めた眷族を従え、一歩下がって猿神ハヌマーンがひかえていた。右前にはシバリンガが置かれ、その上には聖水の壷が用意されていた。

館長が盛んにカメラ小僧をしていると、とあるおじさんがやって来てお参りをはじめた。先ず、本尊に手を合わせ、やおら菓子折りを開き、中から豆の粉を砂糖で固めた菓子を砕いて、本尊の口元に捧げ食べさせる思い入れである。つ日に眷属全ての口元にお菓子を捧げ、やおら後ろを振り返りまわりのインド人に供物のお下がりを分配はじめた。館長にもその供物のお下がりは振舞われた。

何かお払いをしてもらったような、気がした。
眷属を従えたドゥルガの化身である・・右奥は一歩下がって猿神ハヌマーンである・・背後は勿論インド菩提樹である・・シバリンガムが大小4柱起立していた・・
とあるおじさんの登場である・・数分の本尊への祈りのあとやおら菓子折を広げた・・そして本尊の口元に押し付けた・・
眷属にも1口ずつ捧げた・・
とあるおじさんが振り返り、周りのインド人に加え館長にもお下がりの余得をまわして頂いた・・善哉善哉!!
Pritiviraj Singh Deoさん

2007/9/30

大和やさんに置いてある焼き物の作者である。

1993年から5年まで、京都芸術大学で陶磁器を勉強したという。現在は、出身地のオリッサでClay Rightというブランドで磁器を焼いている。

MGロードで、ニューデリーに向かい左手に曲がりちょっと入ったところの自宅の地下を工房に、庭先の屋根だけのところに、プロパン窯を作り制作している。大和やさんに収めるものはすべてここで作られる。

策人に使う白粘土はラジャスタンかグジャラトから取り寄せているようである。800度で素焼きして、釉薬をつけて、1250度で焼き上げる。素焼きはプロパン2本で、本焼きはプロパン3本を併用するという。

助手一人、工人一人という構成である。

焼き上げられた作品は、叩くと澄んだ心を洗うような音を発する。よく締まっている。日本食に使える器ができ始めている。
左は大和屋の成松さん「これならいける」 右がシンデオさん・・
彼の助手である
彼の家へのアプローチ
彼の家の前庭
庭の一隅に作られたプロパンの窯。素焼きは800度、プロパン2本を使うとのこと。本焼きは1250度でプロパン3本を使うという。1本400ルピー(1200円)のプロパンを一窯に5本使う。
粘土はラジャスタン州、グジャラト州から買うという。
作業場である。工人である。今長皿の型抜きをしていた・・
失敗作である・・
中古車販売

2007/1/16

郊外を走っていると、時々中古車販売をしているところに行き当たる。マルチZENとHYUNDAIが圧倒的に多いのは、生産台数に相関しているのかななどと思いながら、インドもいよいよ中古車までが市場性を持つマーケットとなったかなどと思ったりする。

一昔前に、輸入中古車の許可を政府から取り付け大儲けを企んだディーラーがいた事を思い出す。結局政府は輸入中古車には冷たかったようである。
日本と大きな違いは値段が書いてないところでしょう・・
運転席に座っている男は、そんなに金持ちには見えなかったが、商談は如何に!
カシミール・ワラ

2007/11/19

カシミールの手工業品を購う行商人をカシミール・ワラと呼ぶ。

扱う商品は、日本でも一時喧伝されたシャトーシュと言われる今ではワシントン条約で取引が禁止されている極上のショールから、パシュミナ、カシミヤのショール、毛織のカーペット、皮革製品(なめし皮のジャンパー、上着、コートなどは注文して半年はかかる。)、木彫りのスクリーン(屏風)、箱、小テーブル、papier-macheと呼ばれる紙製品などなどである。

日本人の各家庭を順繰りにまわり、商品を広げ時間をかけて値段の交渉をやり、商いを行う。娯楽のないインドではそんな夜の過ごし方もある。

過日、ジャン友中島邸でカシミール・ワラの商売を目撃した。どこか記憶の中でムズムズするものがあると感じながら冷やかしていると、「旦那はGK-Iに住んでいた三菱商事の人でしょう。」とずばり言ってきた。

なるほど商売である。何十年も前の客の顔も覚えておくのが商売のコツであろう。

彼の名刺である:
Mr. A. Hussain
Wholesale & Retail Dealers of :
Pashmina Shawls, Carpets, Chain Stitch & Cushon Etc.
17, Church Road, Bhogal Jangpura, New Delhi-110 014
011-24372466, 9810281309

1/B-300/301
Bemina Houseing Colony, Srinagar, Kashmir (India)
0194-2491563
a_hussain999@yahoo.com

最後にかわいいショールをお土産にくれた。
 
右上のラクダ色が自然のままの色である。なかなか良いものであった・・7万5千ルピー(22万円)は妥当な値段なのかは知る人ぞ知るである・・
手の込んだ刺繍であることよ!
一人の人が一年かかるという・・リバーシブルの刺繍で、言い値は1.2ラックルピー(12万ルピー=36万円)で、今日のハイライトであった。
息子か助手か?とにかく色白で大きな鼻が特徴的である。一言も喋らなかった。
フセインさんである。確かに見覚えのある顔である。20年の記憶力は大したものである。


石工の親子

2008/3/1

ラジャスタン州はいろいろな石が産出する。GEM Stoneと呼ばれる、準宝石の類から、建築用の石材まで、あるゆる種類の石が出る。そこで、ラジャスタン州には貴石を磨く人や、宝石のデザインをする人、それから石工などの職業がある。

この石工の親子は、道路工事に携わっている。トラクターのトレイラーで運ばれてきた不定形の石を適当に割り、積み上げセメントで固めて、道路の側溝を作る仕事である。親父さんが溝をつくるように石を割り選び積み上げ、そこへ女房殿が練り上げたセメントを使い側溝の壁を仕上げる。

10才の息子はじっと親父と御袋がする仕事を眺めている。と言おうか学んでいる。とても良い親子関係と見えた。親父さんは、日に200ルピー(600円)の日当だという。「良い給与だね。」と館長が言うと、首を横に振って肯定の返事を示した。
 
近所の山はこんな石からできている。道路にトラクタがぶちまける。そこから適当な石を選び、溝の壁を作る。
左に見える山は木はほとんど生えていない岩山である。おそらくそんな山の一つから切り出した石であろう・・左のトラクターが石を運んでいる・・
気さくに話をしてくれた家族である・・親父は石を選び、積み上げ、セメントを塗りこめ、側溝の壁を作る。女房はその進み具合を見ながらセメントを捏ねる量を調整する。息子はそれを見て勉強している・・いい家族である・・

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

身辺雑事

2007/3/27 28追加

ビノードが咳を始めて2週間である。結核で無ければよいがなと思っている。風邪であろう。熱は無いようであるが、今朝は耳の奥が痛むと言う。医者に行けと指示をしたが、いくであろうかと危惧している。

サリームが、昨日から髪を赤く染めて来た。聞いたら、日曜日に友達が赤く染めたので付き合ったとのことである。女房を出産のために故郷のラクノウに帰した間の、悪戯であろうか。

その二人の今朝である。
続身辺雑事

サリームの奥さんは今ラクノウにいる。昨日、午前11時半に無事男子出生。サリームは、喜びのあまり、レワリ(この近所で一番の町)の菓子屋で、カジューバルヒを3キロ購入して、プラサドとして、工場全体に配った。潤沢に行き渡った様である。キロ250ルピーx3=750ルピー(約2000円)の散在であった。

ビノードは医者に行き、薬を貰い昨日から服用している。医者と薬で85ルピー(約220円)掛かったという。今朝は耳の痛みはなくなり咳も軽く少なくなったようだ。

普段と変わりない毎日と思う中で、色々起こってゆくのが宇宙船地球号である。
車を待つ女性

2007/4/7

バスに乗るのか、それとも会社手配の車を待つのか、通勤の時間にヒーローホンダチョーク(チョークとはスクエアとか、賑やかなマーケットなどを言うが、此処では角、四筋くらいの意味で使っている。)での女性達である。

もうインドの女性はサリーとはいえないような御時勢になってきている。西洋風の身なりとサリーの間に、このようなパンジャブスタイルが介在している様である。
ジーンズも進出中である・・ジーンズの生産はインドが世界一とか・・
会社の配車を待っているのであろう・・
館長の下手な鉄砲である・・こんなに取れているとは・・すべてがパンジャブスタイルである・・
女性の社会進出

2007/6/27

インドでの女性の社会進出はまだまだと言われる。

でも、インディラガンディは女性で総理を務めたし、現在のラジャスタン州の州首相のラジェさんも女性である。カルナタカのジャヤラリータも女傑である。これらの女性は選挙で選ばれその地位を得ている傑物である。

オフィスでも徐々に女性も職を得てきている。ニューデリーの丸の内バラカンバ通りでこの暑い中歩いている女性達も遊びではなさそうである。日本で言うOLであろうか・・
クムハールの店

2007/10/15

日本のなべ屋横丁や、河童橋のように、インドでも同業者が軒を連ねることは珍しくない。買い手の方は、そこえいけば必要なものが手に入るということが予め知れているから、出かけてゆくわけである。

サケット(デリーの南)にもそんな通りがある。そこには、クムハール(素焼のつぼなどを作るジャーティである。ジャーティは強いて訳せばカーストである。)の店が軒を並べる。

テラコッタ美術館とはまた違った日常品が並び、これも見る人を飽きさせない。
庭の彫刻

2007/12/25

数年前のことである、延子(館長の連れ合い)と上野に日展を見に行った。絵画には多少の見るものがあった。で、ついでに彫刻の部門を一巡したが、訴えかけるものが全くなかった。相当ガッカリして、二人は無口になった。

インドで、テラコッタを見て、感動したことは前に書いたが、今日訪れた家の庭でまた久しぶりに館長の心に訴えかける作品を目にしたので、館の陳列物に加えることにした。

説明はいらない作品ばかりである。人間的な温かさと、平安を訴える作品群は、館長の心を動かした。いいものを見せてもらえた・・

Omaxe グループの総帥である、Mr.Rohtas Goelさんの庭である。彼に再登場の機会があるといいなと祈っている。傑物である・・
中央のジャージーがゴエルさんです・・
彼の住居である・・
ビノード・ヤダブ19才

2008/7/7

誕生パーティを開いた、館長の使用人ビノード・ヤダブ19才はもう大人である。

ひげも立派に生えている。
 
顎が割れ、髭も立派なビノード19才・・
色が白くなるとテレビで広告している化粧品を使っている。そのままの写真をプリントして渡すと、「コンピューターで顔を白く直してくれ」と要求がでる、思春期である・・
ひげをからかったら、早速大和屋さんの前の館長の床屋で整えてきた・・30ルピー(75円)かけて・・
ビノードがひそかに使っている美白剤・・マイケルジャクソンの様にはゆくまい・・

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銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

 
インド門

2006/6/29

1919年アフガン戦争と、第一次世界大戦のインド陸軍の戦没者約85000人の名前を掘り込んだ、砂岩で出来た42メートルの高さの門である。

インドのお上りさんが必ず訪れる名所で、デリーに住む人にとっても格好の夕涼み地区で、いつも相当の人出である。

このインド門のあるところを示すには、観光案内には、ラジパット通りと記してあるが、どっこい素晴らしく大きな広場の端に位置する。反対側が大統領官邸である。この広場の一部は、ボートクラブと新聞で紹介されるが、全体を見ると数百万人は入れそうな大きな広場である。1月26日のリパブリックデイのパレードはこのラジパット通りを行進し、広場に観客席が組まれる。

人出があれば、それを当てにした商売が出てくるのが人情で、アイスクリーム屋の稼ぎどころである。一本5ルピー(13円)から15ルピー(38円)位の色々なアイスを売っているようであるが、館長は未だ試していない。
 
ロディー公園

2006/8/6

ニューデリーには色々公園があるが、館長はこのロディー公園が好きである。

広くて、色々な遺跡があって、植物の数も多い。しかも遺跡の一つ一つが立派で、独立の遺跡としても価値のあるものが少なくない。しかも、入場無料である点が特に気に入っている。

ロイヤルパームツリーの立派な並木は見ものである。しかも手入れが良く行き届いている。ベンチも適当にあり、恋人達の束の間のランデブーの場所にもなっている。
メラウリ考古学公園(Mehrauli Archaeological Park)

2007/2/2

MGロードをニューデリーに向かい、クツブミナール直前にこの公園は位置する。クツブミナールに入るには料金が必要で、しかも外人は差別価格であるので、館長は腹を立てていてなかなか入らない。でもこの公園は言ってみればクツブミナールの裏庭で、しかもただであるので時々寄らしてもらう。植木園の裏でもある。
サンドストーンの立派な標識が立っている・・
クツブミナールが指呼の間である・・飛んでいるのはとんびである・・
墓である。逆光の撮影である
墓の全景
少し近くから・・
こんな角度はいかがでしょうか・・
道路の反対側の墓である・・
Balbanの墓であるとの解説、1286年建立。
墓本体であるが、看板の解説がなければ単なる遺跡である・・
遺跡が映えるのは青空とトンネルである・・
 
トゥグラカバード

2006/7/9

デリーの郊外、南にトゥグラカバードの古城跡がある。ギヤスウディンにより築城された城砦都市の遺跡である。正に荒城の月にふさわしい佇まいをしている。血砂岩をふんだんに使ったアグラ城や、オールドデリーのレッドフォートの派手さはないが、夕方訪れると、日本人に何かアピールするものがあるから不思議である。

城塞都市として周囲約7キロを城壁で囲っていた広大な遺跡跡で、現在は一部が住宅地に開発されている。

建設者といわれるギヤスウディンの廟が道路を隔てて南側に残っている。両方あわせて、外人の入場料は100ルピー(250円)だが、館長は払うのを潔しとせず、裏のほうから上り撮った写真が主である。
 
マハトマガンディの行進

2006/7/24

大統領官邸の真後ろの塀の外側に、このマハトマガンディを先頭とする行進の群像の彫刻がある。

ガンディを先頭にあらゆる階層(カースト)の人がその後に続くと言う大作で、非常に力強い作品である。

館長のガンディのイメージはもう少し華奢で小さな感じであるが、この作品はガンディの心の偉大さを形に表現して、大きさと力強さを見るものの心に訴えている。しかも、傾斜を登る姿勢で、正に天を目指している予感を見る人に与える。芸術としての評価よりも、ガンディの偉大さを後世の人にわかった貰いたいとの悲願を作者は彫り込んだのだと思われる。一見に値する。

マハトマとは、摩訶不思議のマカ(大きいと言う意味)にアートマ(霊、心と言う意味)が結びつけ、マハトマ=大心と言う意味で、この称号がガンディに与えられた。
ピアオー兼ダラムサラ

2007/1/3

グルガオンからデリーに抜けるMGロードの端にダウリピアオーがある。一寸見過ごしてしまうような遺跡だが、一寸気になるものである。

このピアオーは先ず井戸がある。当時はおそらく牛に引かせて水をくみ出していたものであろう。今でもこの手の井戸は田舎に行くとよく出会う。井戸で汲みたての水を旅人や通る人たちに用意していたのであろう。

1930年と年号が書いてあるので、おそらくその頃までは使われていたという意味なのであろう。それに付随して、ダラムサラ(Dharamsara)が建てられている。ダラムサラと言うとダライラマが亡命して住み着いているところの地名を思い浮かべる人が多いと思うが、本来の意味は旅人に無料で宿泊してもらうための慈悲の建物である。旅人は寝具や食べ物は自炊で結いしていたので、雨露を凌ぐ屋根があればよかった。そういう建て方の無料宿泊施設である。

此れは、インドだけではなく、ネパールでも館長は目撃している。(ネパールではダラムサラパティと呼んでいたような記憶がある。)

今のインドでは、もっと金をかけた無料宿泊施設が、宗教的な意味のある街道などには金持ちの喜捨によって建てられていて、巡礼たち宿泊と食事の便宜を図っている。

看板にスポンサーの名前が書いてあるのがインド的である。メセナの規模も色々あり、この遺跡の維持を自分の会社のメセナ活動としているわけである。公園にも、街路樹にも、交番の建物にも、交通標識にもそんなアイディアが使われている。
井戸である。渡してある棒に滑車をつけてそれを牛に引かせてくみ上げる仕掛けである。今は鉄格子が嵌められているが落ち葉の間から水は視認できた。
ダラムサラである。ピアオーは左手前となっている。道路際のため全景が撮れていない。そのうち追加しよう。
ダラムサラの道路に面した部分から撮ったもので、舞台よろしく3ウォールの仕掛けである。寒くなければ此れで一夜を十分過ごせるわけである。
スポンサーの看板である。名前と年号が入り立派なメセナ活動である。1930A.D.のA.D.が利いている。年号であると主張している。INTACHというのはThe Indian National Trust for Art and Cultural Heritage
のことを言うらしい。復元者の身元が確りしている。
ジャイプール街道にあるダラムサラの遺跡である。おそらく駱駝の商隊などが一夜の宿をしたのであろう。ずいぶん広い。今は無惨にも広告塔になってしまっている。
外気に面した部分と、奥がある。偉い人とか、大事な人が奥で休んだのであろう。今は国道NH8号沿いにあるが、当時は、砂漠に近い荒地の中の道沿いにあったものであろう。
デリーでは違法建築や違法営業の封鎖等が、派手に行われている。その例外が宗教に関する遺跡である。道路にはみだす様に立てられている、寺院や墓は取り壊しから無いようで敬遠されていた。

又、デリー外ではそこまで厳しい遵法は無いようで、グルガオンでは取り壊しは今までなかった。

ところがである、館長が関心を持ったピアオー兼ダラムサラがメトロの建設のジャマとばかりに一気に取り壊された。
いまは使われていないし、宗教的な意味もないので密かに取り壊された。館長としては、博物館の展示物に加えておいてよかったと思っている。メトロ様が走る走るグルガオンまで。
デリーメトロは善でありそのために傍若無人がまかり通るような感じである・・

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

レンガからブロックへ

2008/11/3

以前、建築現場での変化ということで、竹から鉄パイプへの変化を取り上げた。

今回はレンガからブロックへの変化の現場である。

ムンバイ(昔のボンベイ)では、建物の仕切にレンガを使うことを禁止して久しい。新建材が事務所のパーティションに使われ始めている。

ニューデリーの建築現場では、相変わらず、レンガの仕切りや、壁が使われている。その中で、グルガオンの一角で、ブロックが使われているのが目撃される。

時代は変化をしている。
 
2008/11/22 追加
壁の仕切りはブロックが使われている・・
壁もブロックである・・通常はレンガの上にモルタル処理となるのであるが・・
これも建築中のビルであるが、見事にレンガを壁にもしきりにも使っている・・
盆栽

2008/12/30

インドでは盆栽が結構人気がある。今までに何回か盆栽の展覧会を見た。

この暑いインドで盆栽を完成させるには並大抵の努力では無理があろう・・

そうです、皆育ち過ぎになっているものが多いようでした・・

ここリッチモンドパークでも盆栽教室の案内が張り出されていた。

野菜や果物の盆栽とはどんなもんか興味をひかれる・・
いろいろな売り物や

2009/2/2

良く飲むMGロードのスペシャル・ラッシーの並びの売物屋さんの店頭である。クムハール、ローハールなどダリット(不可触民)の製品が並んでいる。
 
素焼の貯金箱はクムハールの商品である。左後ろはベッドである。ドライ・パーンや嗅ぎ煙草も売っている。この左先が、キサーン・ハート(キサーンは農民の意、ハートは手の意)という農民の手工業品展示会場で、そけの客を当てにしての商品揃えである。
泥壁の家などで使われているベッドである。足の部分50センチ位が編み上げてないのが大きな特徴である。風が通って涼しいのかも・・屋上や野外でも使用される。
そのベッドを作る材料が売られている。木に白い塗料で番号が書いてあるのは、街路樹として登録されている木であることを示す。
ロハールの商品である。左端は、マーリー(庭師が使う鏝で、芝を植える時になど使う)、中ほどに金槌、手前の捻じれ棒見たいなものは草取り用の鏝、お国は中華包丁みたいな鉈、右端には各種のポンチである。外に置かれているのは、いずれも炭や自然乾溜のコークスを燃料と知る暖房、調理器具である。
台の左端はチャパティを焼く焙烙鍋でパンケーキも焼ける。その右は、押し切りする固定式包丁でカーブの角度が微妙である。INAなどの一場ではこの包丁を使って魚を起用にさばいてくれる。奥のぼつぼつ様のトタンの製品は鬼下ろし器である。奥に座っているジィさんがふいごを使って鍛冶の仕事をしている。
襤褸を纏っても心は錦

2009/2/26

NH8号には、日本のデコトラのような見事なトラック飾りの車は走っていない。五色七色を使っての絵を描くぐらいがせいぜいである。あとは、産児制限の標語だとか、魔除けの文句だとか、愛国の精神を書きなぐるとか、字での表現がある。

一方、規制が無いのか、いろいろなものをくっ付けて走っているトラックがある。オリジンは魔よけと言われるが、飾りの要素もあるのだろう。襤褸を纏っても心は錦と言う言葉があるが、まさに襤褸を纏っているトラックもいる。今日はその写真である。
 
Xに張られた黒い布が、魔除けの始まりと言われる。車の周囲のゴムの紐は、タイヤ自動掃除用の意味があるのかも・・
極彩色のきらきらは車飾りの店で売られているものである・・
布やゴムだけではなく、金属製のものをぶら下げている例もある・・
見事に風を受けて粋に吹き流しながら疾走している・・
どう見ても襤褸である・・
満艦飾である・・心は錦といきたいものである!!
ターバンとヘルメット

2008/1/28

インド軍の中で、シックのターバンをかぶっているものは鉄兜をかぶらなくてもよいとされる。

おそらくいろいろな議論があった末での決着であろう。
「戦場で弾が飛んで来たときに、鉄兜がないと、大変なことになるぞ。」
「我々弾なぞ問題ではない。神の加護がある。」
「戦場には神なぞおらん。」
「自分たちが大丈夫と言っているのだから、大丈夫です。」
「こんな簡単なことがわからぬのか。石頭め!」
「おっしゃる通りの石頭ですから、鉄兜はいらないのですよ・・」てなやり取りが、当時の英軍とインドのシック教徒の間にあったのであろう。その伝統が今のインド軍につながる。

軍隊でも鉄兜を不要トするくらいですから、オートバイに乗るのにヘルメットなぞは要るはずもありませんんとの議論が通り、英連邦の国々の中にはシックのヘルメット不着用を許す国が多出している。日本ではそれは通らぬ議論であろう。

工場内でのヘルメット着用をどうするかの議論がある。一考用す。

三井住友建設さんの現場では、ターバンの上にヘルメット着用を強要している様である。その証拠写真を2葉掲げる。因みに、この人たちはシークではない。
 
ダバ (DHABA)

2006/5/09
2006/7/13追加

北インドの街道筋にあるトラック運転手等を相手にする飯屋。大きな駐車場と、アルミの寸胴鍋をこれ見よがしに並べて、食欲をそそる演出をしている。ベジタリアンとノンベジがあるが、ベジタリアンが多い。店により味が違う。ダバで出すチャイは本場もんである。牛乳で茎茶を煮出し、砂糖を利かし、にっきと生姜も利いている

水浴び場を設けているところもある。トイレは無い様であるから当てにしてはならない。
特にデリーから北、パンジャブに向かう道路のダバが有名である。

デリーのクラレッジ(Claridges)ホテルにダバと言うレストランがあるが、本物のほうが旨いかも。

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

に位置。

 
デリーの遺跡

2006/6/20

外部から侵略してきた回教徒は、1200年代の前半にデリーを首都とした。

インドの建築技術は、回教徒が盛んに城や、墓を作り出すまでは、大したものはなかったようである。

インドにある26の世界遺産(2006/6現在)中で、人工の文化遺産は21箇所であるが、その中で、建築技術で優れているのは殆どが回教徒が作ったものである。(それ以外の遺跡は、文化遺産としての価値は、建築技術が劣っていたとしても決して減じるものではない。)

その回教徒が、首都としたデリーには、レッドフォート、フマユーンの墓廟等の巨大な素晴らしい遺跡が数多くあるが、それ以外にも町のどこにでも回教徒の史跡が散在する。その数は1000箇所を超える。(日本の専門家が1950年代の終わりに調査した報告書があるはずである。)

インド政府は、これらの史跡の中から保存に値すると思われるものを保存するように努力している。国家財政厳しいときも、この努力は継続された。既載したデリーゴルフクラブ内の遺跡も、保存の措置のとられているものと、朽ちるに任せるものがあるようだ。

ここに載せた写真はハウスカースの住宅街にあるものであるが、日本ならさしずめ遺跡饅頭か羊羹が売り出されそうな遺跡と思うが、ひっそりとたたずんでいる。館長は一見に値すると思うのでカメラを向けた次第である。
 
国立博物館

2006/7/2

コルコタの博物館はインド博物館と言うが、デリーのは、国立博物館とう。どっちが格が上かと言うと、コルコタと言う人が多いだろう。古さといい、いや歴史といい、展示物の偉大さといい、歴史的意義といい、その規模といい、問題なくコルコタである。

入場券
外人 300ルピー(750円)
カメラ 300ルピー(750円)
計 600ルピー(1500円)
である・・

かくいう館長は、インド博物館の館長である。国立ではない。国分寺に住むせいである。(蛇足である。)
 

タジマハル

2006/10/7

今まで館長は何回タジマハルを見物するためにUP州のアグラ市を訪れたのだろうか。

1961年の第一回の訪問は、日印親善学生使節団の時であった。そのときはビビカマクバルの廟を見た後であったので、ムガルの人たちは皆こんな廟を死んだ夫人のために立てるのかとの感想を持った。

家族で訪れたことも有る。月光のタジマハルに感動したことも有る。会社の人たちと団体で訪れたことも有る。でも、一番多かったのがお客を案内するいわゆるアテンドと称する観光案内であった。

ガイドにもそれぞれ思い出がある。日本の製鉄メーカーの方々を案内したとき、ガイドより通りがかりの12~3才の子供がとても調子よく一行に絡んでくれて、暑さも忘れて会話を楽しんだこともあった。今頃彼はどうなっているのだろうか。

何時行ってもタジマハルはタジマハルで変わらない。写真にならない。暑い。廟内が匂う。物売りがしつっこい。綺麗である。親しみがない。左右対称である。偶像崇拝を否定する回教の中での建物に対する規制はないのかとの感想。このままでは最終的には世界は回教徒の廟や墓で埋め尽くされるのではないかと言う恐怖。

変わったのは、世界遺産に指定され、いまや入場料と言うか拝観料と言うかチケットが外人用は750ルピー(1875円)と高くなったことであろうか。インド人観光客は20ルピー(50円)である。インド人観光客と書いてあるのは、廟を信仰の対象としてのお参りや、祈りを捧げてはならないという意味であろうか。又、持ち込める品物が限定されれるのはテロ対策とはいえ味気ない世になったものである。でも、カメラが許されているのは救いである。カメラ付きの携帯は不可である。

素朴な疑問が有る。タジマハルの名前の由来である。

ご存知、シャージャハンと言うムガルの王がその亡くなった夫人のために作った墓所である。その夫人は、19才のときに嫁ぎ、38才で14人目の子供を生む時に亡くなった人もうらやむ多産系の夫人であった。彼女の名前はArjumand Banu Begumであり、ムムターズマハル(Mumtz Mahal=宮廷の慈宝、ペルシャ語)と呼ばれていた。それで、タジマハルと呼ばれるらしい。

タジマハルの建設には22年(1631年から1653年)かかり、その材料は、インド国内、周辺のアジアの国々から集められた。白色大理石は、国内のラージャスタン産であり、、ジャスパーはパンジャブから、ジェードは中国から、トルコ石はチベットから、ラピスラズリーはアフガンから、サファイアはシュリランカから、カーネリアン(赤瑪瑙)は中近東からと28種類の宝石や貴石が白い大理石に埋め込まれた。

このインレイ技術を引継いだ大理石に貴石を埋め込んだテーブルトップやお皿などがアグラの名物になっている。

インドの回教徒は、デリーのジャママスジッド(Jama Masjid)とタジマハルをお参りするとハッジ(イスラーム教徒が実践しなければならない「イスラームの五柱」の一つで、決められた時期にサウディアラビアのメッカで巡礼することです。日本語では「大巡礼」とも呼ばれています。それを行うと一人前になり、それなりの帽子をかぶる。)に成れると言うローカルルールがあると聞いたことが有る。インディアンハッジである。そのため、タジマハルをお参りする回教徒が多いが、祈りを捧げる人は見当たらない。

これからも何回かタジマハルを訪れることになるのだろうか。訪れるたびごとにタジマハルは変わらないが、館長が変わってきている。アグラ城からタジマハルを望んだときに感じた感激も、いまやアグラ城まで行ってこの白亜の廟を見る気力もない。後ろを流れるヤムナ川を越えて向うの黒い廟を自分のために作ろうとしたシャージャハンが残した土台跡に感慨を馳せる気も昔と違っているようである。丸ビルの何倍かとの感慨もいまやその丸ビルがないのであるからして・・

でも何回訪れてもそれなりの興感と感慨があるのであるから、タジマハルもなかなかのものである。堂々たる世界遺産である。富士山に登らぬ馬鹿と、二度登る馬鹿と言う言い方が富士宮にはあった。館長は3回登っている。
門扉である・・打ち出したものか、鋳たものか、なかなかのものである・・
敷地内に有る正面の門である・・大理石と砂岩のバランスが大変良いと館長は思う・・
熱弁をふるうアリ君23才・・独身である・・大学生である・・
砂岩を彫りぬいた技術に脱帽である・・砂岩は硬くて劈開しやすいので、彫りぬいて一体ものを作るのは大変だろう・・
砂岩に浮き彫りしたものである・・線を彫るのではなく、線を残して浮き彫りを完成させる根気に敬意・・
タジマハルの写真を載せなければとの思いでの写真である・
廟の入り口の左側・・ここは砂岩ではなく、大理石の透かし彫りと、インレイワークである・・このインレイがお土産の元となっている・・
お土産屋のインレイワークより品格が有る・・使う貴石の厚さも違う・・3倍くらい違うようである・・
大理石に刻まれたレリーフであるが、チューリップの描写に嘘がある・・1961年来疑問に思っている・・未だに枝分かれしたチゥーリップを館長は見ていない・・
この辺りの装飾も館長は好きである・・
タジマハルの本体の裏側である・・右奥はヤムナ川・・本体の影で休んでいる・・心の中では礼拝をしている回教徒もいるのかも・・
抱くの所へ掲載したい絵でもある・・
大理石のインレイワークを施した象の像である・・
同じく壷である・・文様に品格が失われているように館長には思われるがいかが・・
 
パンク

2006/7/15追加

街道で、賽の河原の石積みのようにタイヤを積み上げたものを見つけたら、それは、パンク直し屋である。
住宅地の、自転車、バイクを扱うところでは、実際パンクを直してくれるが、街道筋のトラック、乗用車には、タイヤにコンプレッサーで空気を入れるのがせいぜいであろう。

新興住宅地のパンク直し。隣はペンキ屋で、一寸した車の引っかき傷をタッチペイントでつくろいます。看板はヒンディーでぺンチャルと描いてあります。

どうも自転車のタイヤは積み上げるわけにはいかないので、ところかまわず引っ掛けたり、投げ上げたり、ぶる下げたりしてます。もう少し整理をして欲しいものです。

ツグラカバードの近所のパンク直しやさんです。ずいぶん繁盛してます。スクーターが得意の店でしょうか?

一寸やりすぎではないでしょうか。整理をしてください。埋没しそうです。でも人気は有るようで、何時も行列です。
 
インドの定員

2006/5/30

5人乗りはいつ見ても感動ものである・・
男の子3人の兄弟であろうか・・これ見よがしに疾走する家族にとって、男の子3人は、嫁が持ち込む持参金を考えると大変な財産である。
44度を超える中、山盛りのオートリキシャである・・20人以上あるいは30人以上乗っているようである・・
乗るほうの忍耐もさることながら、それでも動くバジャジの三輪車の力強さょ・・
インドにはインドの定員がある。と言うか、最大積載量が決まっているようである。自転車は4人、スクターは5人、バイクも5人である。
全てオウンリスクで乗るのである。ジャイプール街道の三輪タクシーは、運転席に客が4人、その後ろに運転席に背を向けて4人、それに向かいあって4人、車の外に向かって座るのが4人、外にぶる下がるように?まるのが若干名、屋根の上が若干名で、以上足すと合計20名を超えることになる。
 
逆 走

2006/6/13

ジャイプール街道は、3メーターを越す中央分離帯があり、そこにブーゲンビリヤとか、夾竹桃とか、キバナ夾竹桃とかが植わっている。その両側は、日本と同じ左側通行の一方通行となっている。

そこを逆行するものがある。人間は、まぁ許せるか。犬も、牛も、ヤギも、羊も、水牛も、ラクダも、ロバも、馬も・・で、それらの生物が車を引いて逆行するのは許そうか。自転車とか、ラクダの引く車とか、馬車とか・・

では、オートバイは?オート三輪は?スクーターは?バスは?トラックは?全てのものが、おずおずと逆走したり、堂々と逆走してくる。
 

 
逆送する乗り合い三輪車は、多少は遠慮気味に・・
 
この白い乗用車はかなり堂々たるものがあった・・
 
車の間に昼間からライトをつけている三輪車、多少は遠慮気味である・・
 
これはもう堂々たるものであった・・
 
大体逆送するトラックは遠慮会釈もない。これもである。ぶつかったらそっちが損だろうとばかりに・・・・
 
土煙を上げて、ホーンを鳴らし堂々たる行進である・・

館長のドライバーのサリーム君は、怒りもせずに、よけて鼻歌交じりである。何か変!

 
夕涼み

2006/6/28

リッチモンドパークに住む館長は、仕事帰りに、フラットの芝生で夕涼みをしているこどもっちや、若いお母さんや子守たちの寛ぐ姿を見ると、心が癒される。

この辺りは、大陸性の気候で、一日の最高気温と最低気温は15度~20度違う、又一年の最高温度と、最低温度は約40度違う。最高は45度全土で最低は5度前後である。

通常であれば、モンスーンのデリー到着は6月29日とされるが、今年のモンスーンは遅れそうとの気象庁の発表あった。でも周辺は雨が降っているようだし、夕方になると一寸涼しくなる。

それで、子供や、奥様方がアーヤーと呼ばれるメイドを連れて芝生に繰り出し来る。心温まる風景である。
 
デイバッグ

2006/7/11

インドには日本のランドセルのような決まった通学用のバッグは無いようである。従って勝手なバッグを使って通学している。又、ハイスクールなどでは、お仕着せのバッグも無いようである。

リッチモンドパークに住む家族の子供達はしゃれたデイバッグを通学用に使っているのが多いようである。

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牛飼い

2006/7/20

カワルの写真を撮っていたら、牛飼いのジーサンがやってきた。「カワルの写真を撮っているのか。」とのたまわったので、そうだと答えると、俺のも撮れと言う。

撮って、名前は何だと聞くと、大したもんじゃないと、腕をニューッと出した。そこには刺青で、「バラットラム」と言うでっかい名前が書いてあった。

良い名前じゃないかと言うと、又笑った。館長のヒンディー語が通じた。
 
グルガオンのオフィスビル

2006/8/9
2006/8/17追加

グルガオンのオフィスビルは、ガラスの壁面を強調するところが何か皆似ている。日系企業も何社か入っている。

使い勝手はどうなんだろうか。
太い色鉛筆を長短2本立てた様なこのビルはグルガオンのコールセンターの象徴のようによく取り上げられるビルである・・館長の散歩一時間コース上にある・・
デリーは冬支度

2006/11/17

デリーの気温は、7度~24度と冬になりました。町も冬支度です。

冬の名物の、蚊の活躍が活発です。今年は、デング熱、マラリアの発生が派手に報告されているので、蚊は脅威です。大和屋さんで蚊取り線香一箱(百円ライター付)、380ルピー(950円)で売られている。

寒くなると、頬被りをする人がでてくる、ショールを身体に巻きつける人がでてくる、布団屋さんが元気になる、霧が発生する。
ダルヘラでスクールバスを待つ女学生も、冬のファッションです・・
頬被りが寒さを防ぐ定番のようです・・
蒲団屋さんの店先が、賑やかになるのも冬の風物詩です・・
インドの防寒は頭から始まるようである・・子ども達に帽子をかぶらせている・・ネパールでは、背負子を背負った男が半ズボンで帽子をかぶって零度以下の環境で働いていたのをよく見たが、どうもこの辺りでは、頭を防寒する習慣があるようだ・・
カーンマーケットの、電気屋の店先は暖房器具が積み上げられている。
なぜか、事故を起こしたトヨトミの製品も有ったりして・・

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

コールセンター -その2-

2007/6/13

インドにアメリカ系のコールセンターが出来始めたのは何時ころだったろうか。恐らく、1990年代の中ごろでもあったろうか、随分前の話だと記憶する。

そのとき気の早いインド人はすぐに日本向けのコールセンターの話を持ち出した。そして、日本が英語で動いている国でないことをしり、じゃーインド人に日本語を教えればと言う話になり、アイディアは消えていった。

ところがである、日本向けのコールセンターが動き出した。

現在18名の若い日本人が働いているという。男性は2名で、年齢は20代が大勢を占めるという。給料は、詳しくは知らないが、大体2万5千ルピー(7万5千円弱)位からとか。

そろそろ実質的な仕事が始まったようである。

館長が感服したのは、募集を見て日本から応募して来た人が大半を占めるということにである。ヨガと英語を働きながら身につけるという目的で来ている人もいるし、インドが好きで好きで堪らない人もいるようだ。手取り2万5千ルピーと言うとインドではManager(課長)くらいの給与であるが、一般の日本人駐在員などと較べると桁違いの処遇である。そこで頑張っているのに感服するのである。

インドに日本人が対応するコールセンターが誕生したこと、インドに若い日本人が職を求めて渡来すること、そういう時代になったのである。
 
若さが貴重な財産です・・インドに懸けても損はないと館長は思うのである・・
テラ・ワラ(四輪屋台)

2007/10/24
2007/11/27追加

自転車の四輪の上に台をつけたものをテラという。それで商売をする人をテラワラという様である。

その台の上に乗せるものでいろいろの商売が始まる。
その1 ピーナッツ・ベンダー

ここで紹介するのは、ピーナッツを主とした屋台である。しいていえば、ムンフリーワラというべきか。彼の屋台の上には、中央部に主役の殻付きピーナッツが盛られている。すでに火を通してあり、その上に、即売用の部分を温める火鍋が置かれる。ピーナッツの周りには、おこし、米の爆弾あられを固めたもの、ゴマを飴で固めたもの、ひよこ豆の塩煎りなどが並べられている。

大体が100g8ルピー(24円)程度でる。

ヒンディ語で塩のことをナーマックという。これにはNMKという3個の子音が含まれている。アラビア語やウルドゥー語ではこの3個の子音が、単語の意味を決める。その影響がヒンディー語にも表れるようである。

日本ではピーナッツのことを南京豆といった。これが英語でもナンキンビーンとなり広がったのではないかと、館長は思っている。

北インドで、ナムキンというと塩味のスナック菓子をいう。ピーナッツのことはムンフリーといい、南京豆とは全く異なる発音である。

しかし館長は思うのである、インドのナムキンとナンキマメは必ず関係があったのであろうと。どなたか意見を出してくだされば幸いである。

4輪屋台の全貌である。
殻付きピーナッツをいる鍋である。砂が入っている。
中央がピーナッツで、火鍋を乗せてその下が温まるようになっている。
秤は商売道具である。インド人はバネバカリを信用しなし。分銅秤が幅を利かしている。ただし分銅に仕掛けがあるというインド人もいる。
テラの全景である。左端に後ろを向いているのが、店主のジーさんである・・
ジーさんがようやく顔を写させてくれた・・なかなか味のある顔をしている・・
その2 シンガラー売り

丸の内の湿地帯に菱が生えていたので、その葉の形状から三菱という商標が始まったと聞いたが本当なのだろうか。
その菱の実をシンガラーという。生食もするが、茹でてほくほくの甘味を楽しむのが冬入りの風物詩である。
館長の観測では、葉だけではなく、実も菱形であるような気がする。

その実と同じ形をしているということで、小型のサモサがシンガラーと呼ばれる。サモサより辛めの感じがするのは館長だけの感覚なのだろうか。ノンベジのサモサはあまり遭遇しないが、ノンベジのシンガラーは乙なものである。
これは、野菜(果物?)のシンガラー売りである。湯気が出ていた。
その3 デワリ商品

テラワラの特典は簡単に商売代えができることであろうか。デワリの際物を売るためのテラワラがその典型でもある。
左手はかわらけ(テラコッタ、素焼)の燈明皿を売っている。胡坐をかいて座っているのはマスコット・ボーイであろう。
右手は、ゲンダを売っている。
その4 リンゴ売り

色の良い林檎を積んでいる・・
昔はりんごは高価な果物であったが、ここ十年で庶民の果物になった。ゴールドコインのリンゴジュースはビールより高く庶民には手が届かなかったが、今は紙パックのジュースがどこでも売っている。いまやトマトもリンゴも庶民のメニューの中に入っている。逆に海老とマンゴーが輸出用に回る為庶民の手から離れてしまったようだ・・

その5 果物売り2台

左は小ぶりの色の悪いリンゴである。右はご存じバナナである。ここはごく庶民を相手の商売やが並んでいる・・

その6 焼き芋うり

さつまいもを焼いたものを売っている。そえものはスターフルーツである。ちょっと高級なおやつである。昔は家具屋が結構存在感を売り物にしたパンチクイーン路である。

今は各モールなどで現物売りをする店が出てきている。20年前には、ここパンチクイーンの家具屋に頼んで2ヶ月後に完成と言うのが常であった。

その7 ピーナッツとポプコーン

右の鍋でピーナッツは煎り、ポプコーンの爆ぜかして作っている。いわば、製造直売である。
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銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

インド交通事情

2007/10/6

インドは車は左である。人はオウン・リスクで好き勝手に歩いている様である。

信号の長さを、館長は二つに分類する。シンガポール型とバンコック型である。シンガポール型は、信号の変わりがめまぐるしいくらい早い。バンコック型はうんざりするほど一つの信号が長い。館長は一つの信号で1時間以上待たされた経験がある。

日本はその中間であろう。インドはその日本とバンコックの中間であろうか。だからなかなか信号が変わらず、うんざりすることが多い。最近の信号では信号が変わるまでの残りの秒数を電光掲示するものが出てきている。
長いものは180秒以上を掲示している。3分である。

インドの伝統ある大都市では、Raj時代(英国統治時代)の名残のロータリーが残っている。馬車の時代の遺物である。そこへ、百万台の自動車が毎年投入されてきた。従い、車があふれ大渋滞が発生する。ロータリーをスムースにうまく抜けるのは本当に大変である。

インドの運転の見切りがすごい。宮本武蔵はその五輪の書で見切り3寸と説いたという。相手の太刀筋から3寸離れていれば、切られないとの極意を説いたという。インドの運転は見切り1寸である。人と車、車と車、車と自転車、車と牛などがすべて1寸の見切りで動いている。

中には見切りを間違え、接触事故を起こす車もかなりの頻度で出てくる。車の表面にその戦果を物語る傷持が多い。事故の保険は自分の車は自分の保険で修理することになっていることはすでに報告した通りである。保険の更改期に保険料が上がるのを避けるため、小さな傷、いや車が動いている間は、保険求償は行わないオーナーが多く、従い傷持ちの車が多く見られるわけである。

インドでは、こんなに自動車が増えることは想定外であった。従い渋滞に対する対策ができていない。日本の様に系統式の信号システムは導入されてない感じがする。また駐車が大問題である。インドの今までの建造物では地下に駐車場を設ける考え方がなかったので、自動車は建物を囲む狭い前庭・中庭・後庭に二重三重に駐車を強いられ、そこに止められない車は、路上駐車を強いられる。路上の駐車場は、政府がテンダーにより業者を指名して、業者は駐車料金を集めながら駐車をさせている。駐車する度に、5ルピー(15円)・10ルピー(30円)と駐車料金を取られる。時間は関係ないようである。

デリーの中心部のコンノート・プレイスでは、狭い駐車場に車が2重3重に駐車させらあれ、そこから出るときには、知恵の輪を解くように手で車を動かし所定の車を道まで誘導するのが、駐車場係員のあんちゃん達の重要な仕事になったいる。同じような光景がINAマーケットでも見られる。

最近のサケットあたりのオフィス・ビルでは地下2階まで駐車場を用意するところも出てきているが、日本と違いほとんどの上級職(マネージャー以上)は、社有車で通うか自家用車を通勤に使うため、スペースが足りなくなっている。

道路にはレーン(車線)が敷かれているが、ほとんどが無視される。デリー・グルガオン間が片道4車線の高速道路が開通したが、レーンを勝手に変えながら楽しげに走っている。レーン変更のインディケーターを使っている車はほとんど見当たらない。

バス・レーンもあるようだがこれもあまり効果を発揮していないようである。バスの運転は、乱暴で傲慢である。そこのけそこのけとばかりに暴走に近い形で走り回る。バスの車体はその結果の名誉の傷で満身創痍である。

最近デリーのポリスはスピードガンを利用して、スピード違反の取り締まりを行っている。館長の車も今週その洗礼を受けた。58キロ出していたとて、18キロオーバーで切符を切れれた。チャラン(罰金)900ルピー(2700円)であった。運転手の懐からの出費は痛いであろう。

インドで一番日本と違うのは、警笛についてである。警笛は鳴らす為にある。その頻度と音の大きさは半端ではない。日系の自動車会社はインド仕様として警笛を強化していると聞く。とにかく乗っているものは、乗っている間中同じ警笛音を聞かされ続ける。口で警笛を鳴らすなと運転手に言っても、永年の習慣は治らない。マルチスズキのある日本人技師は、自分の車の警笛のコードを断線して警笛を零にしたという。不思議なことに、鳴らされた前の車や、人が日本のように食ってかかる図はない。お互い様ということか。

昔インドの国会で如何にアンバサダーが不良な車であるかと議論されたことがあったそうだが、その時の議論の一部が頭に残っている。「購入して3か月たつと、アンバサダーは警笛以外のあらゆるところから音が出るようになる。」というもので、インド人のユーモアに感心した。

もうひとつ、インドでは直進信号が赤であっても、左折は特に禁止の表示がなければ自由である。丁寧に左折自由とわざわざ表示を出している交差点もある。道路が広いのとコーナーが角ばっていないからできる技であろう。

インドで自分で車を運転する日本人は数少ない。日本大使館のスタッフとか大和やさんの成松さんとか限られている。普通の日系企業では運転を禁止しているところもあるようだ。

でも、自家用車を運転するのはインド人にとって当たり前のことで、女性のドライバーのよく見かける。サリームくんは姫トラは危険と言っていたが、これは日本と同じようである。
左折自由の標識
堂々たる片道4車線。NH8(国道8号線)グルガオンとデリー間。車線変更が頻繁に行われし、二輪車がでたらめに車線を無視して走る。
駐車場は、2重3重に駐車させられる。手動で必要な車を動かし知恵の輪のように外へ出す。サロージニ・ナガル・マーケットの駐車場である・・
まだましな感じのバスである・・
1950年代のはじめに阿佐が谷から豊島園を往復していたバスがこんな感じであった・・
バスは/~来るバスも、また来るバスも、みな同じ、満身創痍の、暴走の跡(キズ)・・
コンノートプ・レイスの駐車の現状・・  この狭い駐車用にいかに多くの車を止めるかが、駐車係りのアンちゃんの腕であり、要求された車の出し入れも舌を巻く熟練度である・・まさに知恵の輪の技術である・・
ニームラナ工業団地

2007/10/9

JETROがラジャスタン州の開発公社であるRIICO( Rajasthan State Industrial Development & Investment Corporation Ltd. )とMOU(memorandum of understanding)を交わし、日本企業の誘致を行っている工業団地が、ニームラナ工業団地(Neemrana Industrial Area)である。

ニームラナ工業団地は、Phase-1, 2,が既にあり、今回Phase-3が日本企業誘致に充てられている。すでに日信ブレーキがその嚆矢となって地鎮祭を行っている。日信の工場建設は、オリンピックで名をはせた長野の北野建設が行う。

二番手が、三井化学で、11月が地鎮祭と聞く。

ニームラナ工業団地のデータの一部である。
ラジャスタン州、アルワール( Alwar)地区(District)
デリーから114キロ、ジャイプール(Jaipur)から114キロ、国道8号線(NH8)沿い  で、べロール(Behror)から15キロ地点。 
広さは644エーカー
水の供給は深さ30メートルからの地下水で2500ガロン/時間 可能である。
風は5km/hour
Phase-I, IIに進出している大手企業に
 Parakram Technofab Ltd.,
Rochees Breweries Ltd. ,
Ginni International,
Haryana Sheet Glass Ltd.,
Prerna Syntax Ltd.,
Parle-G  などがあり、そのほかにも多数の企業がすでに操業している。
所轄の官庁 
 Regional Manager RIICO Ltd. Shahjahanpur District-Alwar-301 706 Ph:
(91) (01494) 235237, 235367, Res. 220007
 

衛星写真で日本向けの地域が確認できる。
 

山が見える地域である。ラジャスタン州ではいろいろな石が産出する。岩山があるのである。
まだ何もない所に道路建設が始まっている。工場にとっては処女地で、先代の工場からの埋蔵物の危険は全くない。
山肌は背の低い灌木や草に覆われている。大木が育つほどの雨量はない。
近くの村の文化的あるいは、宗教的な施設があることがあるので注意が肝心である。
道路に先駆けて橋の建設が行われていた。
日進ブレーキのサイトである。この時期には珍しい雨の後であったので、ぬかるんいた。
麗々しく看板が・・
外人登録とPAN

2007/10/10

インドで日本人が仕事をするときに必要と思われるのが、諸外国の例からワークパーミットという考え方である。しかし、インドではワークパーミットはない。

日本を出る前に、必要な書類を必要な所定の様式で、インド大使館あるいは領事館に提出して、Employment Visaをとり、インドに入国してから14日以内に所轄の外国人登録を扱う警察署に登録をすると、登録証を発行される(いわゆる外人登録であるが、事務所の所在地でなくて本人が住んでいる場所により登録する場所が決まる)。

このEmployment Visaが書類さえ整っていれば、東京のインド大使館で1日でとれる。外人登録も書類さえ整っていればこれまた1日でとれる。簡単といえば簡単である。

これに基付き、納税番号(PAN NO=Permanent Account Number通常10桁のアルファベットと数字からなる)を所轄の官庁から発行してもらう。これには数週間かかるが必ず出るから心配はいらない。

この登録証とPanカードがワークパーミットの代わりをする。

外人登録は、ニューデリーの事務所に通っていても、住居がグルガオンであれば、グルガオンで登録する。

館長はグルガオンに住むので、グルガオンのハルヤナ州政府のDistrict Centre にあるMini  SecretariatのFRRO(Foreign Resional Rsistration Officer)のところに出頭して登録を行った。半日仕事であった。

先ず、FRROのMr.Subhshの前に出頭して、所定の書類を提出する。彼はそれをチェックして、助手のMr.yogindraに渡す。ヨギンドラさんは、それを原簿に記帳する。その原簿は一人一ページが与えられ、パスポートの詳細から、ビザの詳細、現住所などが記入され、最後に本人のサインで締めくくられる。そして、やおらパスポートに、外人登録がヨギンドラさんの手書きで記入される。これでこの部屋での作業は終わりである。

あとは、その原簿に別室(2階)にいる警察副署長(Deputy Commisioner of Police)のサインが入れば完了となるのだが、彼がいないと彼が席に戻るまで待たされる。彼のところへ、原簿を抱えたヨギンドラさんと出向くと、列を作って今っている人々を飛び越え、彼の大きな部屋荷入り込む。彼はすべてを了解していて、ヨギンドラさんの差し出す原簿にサインする。その時本人は彼の前に立つことになる。そして握手して終わりである。その間5秒くらいであろうか。これですべてこの建物での今日の仕事は終了である。11時から1時までのことであった。

おそらく明日には外人登録証が発行されるであろう。館長の場合前の時のPANがあるので、これは新たにとる必要はない。会社と住居の変更を届け出すればよい。

で、その外人登録は1年限りの有効で、一年たつを延長のお願いをする。それを提出すると、まずFRROより3か月の延長の許可を頂く。FRROは3か月の延長をした後、Home Ministry(内務省)にお伺いを立てる。内務省がご機嫌良ければ、3か月以内に9か月の延長の許可がFRROに連絡される。そうするとめでたく、都合一年の延長が出来たということになる。内務省がご機嫌悪かったり、書類が内務省の意に沿わない場合は、3か月の延長を再度言い渡されたり、Under Consideration(考慮中)という返事になったりする。

Under Conswiderationは勝手に解釈して通知が来るまで有効として暮して全く問題はない。3か月の再度の延長の場合は期日が来たら、日本に戻りまたEmpolyment Vizaの取り直しから始める羽目になりかねない。

何が決め手で、書類の不備となるのか理由の説明がないのでわからないので困る人がいる。何が原因でご機嫌が悪くなるのかも、測りかねることであり、これまた困ったことだとこぼす人もいるようだ。でも規則は規則故合法的になるように対応するしかないようである。くれぐれも不法滞在で国外追放にならないように注意が肝心である。

インドは書類の国でもある故、書類を馬鹿にしてはいけない。必かつ十分な書類を作ることに努力を傾注するに越したことはない。
 
Mini Sewcretariat ンお入り口である。チャンディガが本省故、出先のグルガオンにミニを作ったということで、車で6時間かけてチャンディガ参りするより便利になっている。
正面玄関である。FRROは左手の3階(日本流の4階)故、正面からは入らない。
前回のときは、だだっ広い倉庫の片隅に机があって、なんか外人部隊が駐留しての仮事務所みたいな感じであったが、今回は4畳半程度のガラスの小部屋が作られ、そこにFRROが鎮座して、それを取り囲み申請者とそのエイジェントがたむろしている感じになっていた。ここに映っているのはすべて申請者とそのエイジェントで、FRROのMr.Subhashは右手前のコンピューターに掛かりっきりで画面に映っていない。ガラス越しのこの一枚が限度である。なんせ警察の中である。
隣の事務局の部屋である。積み上げれれた書類は比較的新しい感じがする。でもあの中に入れられたらちょっと検索不可能になるのではないかと心配である。
ニームラナへの日系進出企業

2007/11/24

信頼すべき筋によれば、ニームラナ工業団地に進出を決めた企業は12社と言う。

そのうちの
日信ブレーキ
ACI
はRIICOとすでに土地のリース契約に調印して、地鎮祭を済ませている。

RIICOは前金を納入した下記の7社に土地のアロットメン・トレターを発行している。
トヨタ合成
Nippon Express
今仙
帝国ピストン
Exedey
IIT Corporation (縫製の検査会社)
天竺トレイディング(レストランとホテル)

これから、アロットメント・レターを出す先として、次の3社が挙げられる。
ダイキン(40エーカー)
三菱化学(15エーカー)
タカタ機械

その他、丸紅、C-ITOなど目白押しと言う。40社のまんざらあり得ない話ではないようである・・
 
New Industrial Complex (Majrakath) Neemranaの地図である・・
ラジャスタン州のフォーク芸

2007/12/4

ラジャスタン州のフォーク芸

11月30日・12月1日にラジャスタン州の州都ジャイプール行われたSurgent Rajasthan : Partner Summit(ラジャスタン州の覚醒:パートナーサミット)の夕食会が、州首相のラジェ女史の主催で、ジャイプールからファティプルシクリに向かった郊外のシソディア王女の庭園(Sisodia Rani ka Bagh)で行われた。

その時紹介されたのがラジャスタン州のフォーク芸である。気候がベスト、少し涼しいくらいの気温で、まさに王者の気分を満喫できる庭園での供宴は観光ラジャスタン州を的確に出席者にアピールしていた。観光も忘れてないでとの、ラジェ女史の巧みな演出である。
 
総勢30名の大楽団の演奏は、迫力があった。また各パートのソロ演奏もなかなかのもので、声を作らない自然のボーイソプラノにも感心した。
顔を見せない奥ゆかしい演出のフォークダンスである。
昼間の会議の司会、饗宴の司会進行も彼女がやった。高名な人であろう。ややハスキーの声と、上流階級を思わせる立ち居振る舞いも大したものであった。
男女共演のダンスである。踊り込みが行われていることが良くわかる。

 
頭にものを載せるラジャスタン州の風俗を取り入れたダンスは観光用としても有名である。今夜は、脇に回っていた。
フィナーレの場面である。まさに会場をうまく使っての全展開である。圧倒的な迫力で会った。
フィナーレは踊り手たちは興奮していた・・
少年も忘我の体で声を張り上げていた・・
楽器の演奏にも負けない声であった・・
楽団の団長である。ゴスワミト名乗っていた。日本にも行って演奏したと胸を張っていた。
声を出せば腹がふぇる・・たくさん食うがいい!
会場の全貌。立派な庭である・・
フォーク芸を見守る招待客・・

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

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コールセンター -その2-

2007/6/13

インドにアメリカ系のコールセンターが出来始めたのは何時ころだったろうか。恐らく、1990年代の中ごろでもあったろうか、随分前の話だと記憶する。

そのとき気の早いインド人はすぐに日本向けのコールセンターの話を持ち出した。そして、日本が英語で動いている国でないことをしり、じゃーインド人に日本語を教えればと言う話になり、アイディアは消えていった。

ところがである、日本向けのコールセンターが動き出した。

現在18名の若い日本人が働いているという。男性は2名で、年齢は20代が大勢を占めるという。給料は、詳しくは知らないが、大体2万5千ルピー(7万5千円弱)位からとか。

そろそろ実質的な仕事が始まったようである。

館長が感服したのは、募集を見て日本から応募して来た人が大半を占めるということにである。ヨガと英語を働きながら身につけるという目的で来ている人もいるし、インドが好きで好きで堪らない人もいるようだ。手取り2万5千ルピーと言うとインドではManager(課長)くらいの給与であるが、一般の日本人駐在員などと較べると桁違いの処遇である。そこで頑張っているのに感服するのである。

インドに日本人が対応するコールセンターが誕生したこと、インドに若い日本人が職を求めて渡来すること、そういう時代になったのである。
 
若さが貴重な財産です・・インドに懸けても損はないと館長は思うのである・・
テラ・ワラ(四輪屋台)

2007/10/24
2007/11/27追加

自転車の四輪の上に台をつけたものをテラという。それで商売をする人をテラワラという様である。

その台の上に乗せるものでいろいろの商売が始まる。
その1 ピーナッツ・ベンダー

ここで紹介するのは、ピーナッツを主とした屋台である。しいていえば、ムンフリーワラというべきか。彼の屋台の上には、中央部に主役の殻付きピーナッツが盛られている。すでに火を通してあり、その上に、即売用の部分を温める火鍋が置かれる。ピーナッツの周りには、おこし、米の爆弾あられを固めたもの、ゴマを飴で固めたもの、ひよこ豆の塩煎りなどが並べられている。

大体が100g8ルピー(24円)程度でる。

ヒンディ語で塩のことをナーマックという。これにはNMKという3個の子音が含まれている。アラビア語やウルドゥー語ではこの3個の子音が、単語の意味を決める。その影響がヒンディー語にも表れるようである。

日本ではピーナッツのことを南京豆といった。これが英語でもナンキンビーンとなり広がったのではないかと、館長は思っている。

北インドで、ナムキンというと塩味のスナック菓子をいう。ピーナッツのことはムンフリーといい、南京豆とは全く異なる発音である。

しかし館長は思うのである、インドのナムキンとナンキマメは必ず関係があったのであろうと。どなたか意見を出してくだされば幸いである。

4輪屋台の全貌である。
殻付きピーナッツをいる鍋である。砂が入っている。
中央がピーナッツで、火鍋を乗せてその下が温まるようになっている。
秤は商売道具である。インド人はバネバカリを信用しなし。分銅秤が幅を利かしている。ただし分銅に仕掛けがあるというインド人もいる。
テラの全景である。左端に後ろを向いているのが、店主のジーさんである・・
ジーさんがようやく顔を写させてくれた・・なかなか味のある顔をしている・・
その2 シンガラー売り

丸の内の湿地帯に菱が生えていたので、その葉の形状から三菱という商標が始まったと聞いたが本当なのだろうか。
その菱の実をシンガラーという。生食もするが、茹でてほくほくの甘味を楽しむのが冬入りの風物詩である。
館長の観測では、葉だけではなく、実も菱形であるような気がする。

その実と同じ形をしているということで、小型のサモサがシンガラーと呼ばれる。サモサより辛めの感じがするのは館長だけの感覚なのだろうか。ノンベジのサモサはあまり遭遇しないが、ノンベジのシンガラーは乙なものである。
これは、野菜(果物?)のシンガラー売りである。湯気が出ていた。
その3 デワリ商品

テラワラの特典は簡単に商売代えができることであろうか。デワリの際物を売るためのテラワラがその典型でもある。
左手はかわらけ(テラコッタ、素焼)の燈明皿を売っている。胡坐をかいて座っているのはマスコット・ボーイであろう。
右手は、ゲンダを売っている。
その4 リンゴ売り

色の良い林檎を積んでいる・・
昔はりんごは高価な果物であったが、ここ十年で庶民の果物になった。ゴールドコインのリンゴジュースはビールより高く庶民には手が届かなかったが、今は紙パックのジュースがどこでも売っている。いまやトマトもリンゴも庶民のメニューの中に入っている。逆に海老とマンゴーが輸出用に回る為庶民の手から離れてしまったようだ・・

その5 果物売り2台

左は小ぶりの色の悪いリンゴである。右はご存じバナナである。ここはごく庶民を相手の商売やが並んでいる・・

その6 焼き芋うり

さつまいもを焼いたものを売っている。そえものはスターフルーツである。ちょっと高級なおやつである。昔は家具屋が結構存在感を売り物にしたパンチクイーン路である。

今は各モールなどで現物売りをする店が出てきている。20年前には、ここパンチクイーンの家具屋に頼んで2ヶ月後に完成と言うのが常であった。

その7 ピーナッツとポプコーン

右の鍋でピーナッツは煎り、ポプコーンの爆ぜかして作っている。いわば、製造直売である。
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銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

 
インド常識・マナー学習

2003/6/27

多摩大学ルネッサンスセンター
40歳台CEO育成講座


2003年6月27日
「インド常識・マナー学習」
講師:清 好延
1. 食
インドの食物は原則として火を通すゆえ安心して食べてよい。
中国との対比
生野菜のサラダ等は最近紹介されたものが多い。

インドにはベジタリアンが多い。宗教的意味とそうでないものと。
一家の中でも違う。日によってベジタリアン。各曜日に神様を割当てその日を忌日として菜食を取る人がいる。
もっとも厳格なベジタリアン 根菜も食べない
普通の野菜はOK
無精卵まではOK
卵はOK
以上何れもミルクをはじめとする乳製品はOK
ノンベジタリアン
鳥と魚はOK
豚を食べない 回教徒
牛を食べない ヒンドュー教徒
何でも食べる

  インド料理は禁欲的な香りがする。
腹が膨れればよい。うまい不味いは言わない。
  
  凝った料理はムガールが持ち込んだ宮廷料理。

  今では味を云々するようになった。

  乳酸発酵文化圏
たんぱく質発酵調味料圏、アルコール発酵調味料圏
納豆を食べる人たちがいる。マニプール州。

  酒はあまり無い。
    ソーマは酒かの議論あり。
酒はただなら大量に飲む人がいる
酔っ払いは軽蔑される。酒の上のと言う言い訳は通用しない

  米を食べるのは南。北は米を必要としない人たちがいる。

  小麦粉から作る食べ物
チャパティ、ローティ、ナン、パラタ、プーリ、バトゥーラ等々

  米や他の穀類から作る食べ物
ドサ、ウプマ、イディリー、ワダ、ウパッタム、

水はミネラルウォーターを飲用とする。

紅茶は北インド、コーヒーは南インドといわれる。
  
  水に関するタブーと寛容さ
古いインドの教えでは(マヌの法典等)客人に水と食べ物を寄進することを徳と教えている。一方、アンタッチャブルには井戸を使わせないとの地域がある。
  
塩は岩塩と海水からのものがある。
ブラックソルトと呼ばれる一寸紫がかった硫黄のにおいのする岩塩もある。

  外食の習慣は無い。自分の家で食べるのが一番安全。
自分のカーストより下のものが作ったものは食せ無い。
ブラフマンがコックに最適。(理論的)お菓子やナド。

  食べるに際し特に規定は無いが、左手は使わないほうが無難なところもある。
手で食べる人が未だ多い。食器はバナナの葉っぱやホウノ木の葉を固めて作った皿など。現在はステンレスの食器が便利と重宝がられている。

  食事は一日二回の地方もあるようだ。

  カレー以外の食べ物は無いと考える。カレー=おかずと考えると分かり易い。

2. 衣
現在の都市では西洋と変わらない服装のビジネスマンが殆どである。
  伝統的な服装をしているのは、政治家、特殊な職業に限られる。

パーティーなどでは小うるさいことを言う場合もあるが、背広一着で十分すぎる。
  サファリで押し通すことも可能である。

ドビーと言う洗濯やがいる。カーストを形成している。

回教徒の女性は黒を身に着けて皮膚をあらわにしないことがある。ヒンドュー教徒の寡婦は白しか着れなかった。初潮を迎えるとサリーを着るようになる地域もある。

坊主の法衣の黄色は防虫剤のウコンである。
法衣だけでなく、お経の紙にも。

インドは絹を中国から輸入している
  絹のサリーが高級サリーで結婚式の金糸を織り込んだ赤いサリーは女性の憧れ。
  輸入した中国の絹糸を縦糸にして各地で名産のサリーがある。バナラシー、ケンチープラム、ベンガル、イカット(絣)等々

既製品よりオーダーメイドの方が安い。
コットンパンツRs.1500~2000 オーダーでジーンズRs.700以下

暑いところでは上半身裸の場合が多い

3. 言葉
言葉のダブルスタンダード
言葉の種類が多い
200~500種類と分類する学者もいる
大きく分けて3種類、プラス英語
  言葉が通じない、分からないのは当たり前
  英語が分からないのは人間扱いされない
   母国語を捨てる人たち
一方ヒンディーを国語にとの普及活動
エンターテイメント系はヒンディーが圧倒的になっている現象
テレビ・映画・音楽

日本語の50音はヒンディーの音韻表から
  世界的に完全な言語は無い
    英語のでたらめさ加減 STR ie ea ae ei ee I
チャ 中国語の出鱈目さ
 
4. 住
上流階級は英国人を初めとする西欧人が持ち込んだ住宅形式を模す

熱帯地方では住居はあまり重きを置かないのでは

家の中には家具が無い


5. カースト
血縁を基本的なベースとした同業者集団、氏姓制度、コミュニティー

日本人がカーストを知っている理由
釈迦の教えの意味を説明するため
人間は同じ

同じカースト同士の結婚が前提だが、同じカーストでもゴートラが同じだと結婚できない。近親結婚を避ける意味。

保険、社会保障の意味合いもある

コミュニティーの謝意小単位 50人

長老が裁く

コミュニティーのルールがインドの一般法に優先する
結婚、遺産相続等

伝統的なコミュニティー間にはルールが出来ている
上下関係、契約関係、

外国人はアンタッチャブルであった
英国人は別格
日本人も別格

6. タブー
コミュニティーの中には各所のタブーがある

他のコミュニティーのやることについては無関心

人に暴力を振るわない、特に他のコミュニティーの人に対して裂ける
非暴力が最低のルールの一つ

生き物の殺傷を嫌う人たちがいる

7. 宗教
意味

ヒンドュー教徒、回教徒、キリスト教徒、シック教徒、ジャイナ教徒、仏教徒
全ての宗教の祝祭日がある(restricted holiday)

無宗教は考えられない

他人の宗教を容認するのが一般的

親子で崇拝する神が異なることもある

寺院では革製品を身に着けて入場できないところが多い。履物も脱がされる。

ヒンドュー、仏教、シックは火葬、回教、キリスト今日は土葬

8. 対人距離
非常に近い
30センチくらいの人が結構いる

インドを一言で表現すると「多様性の国」

インドの歴史の特徴「他を侵略しなかった」

インドの哲学「自己をいかに生き抜くか」が主題で、そのための世界観
宇宙が相手

領土的な現世に野心は抱かなかった

原則に忠実
金儲けが目的とすると何でもする


添付:
私のインド七不思議
インド人のビジネスマナー
夢のジョイントベンチャー
2005/4/11自由社会研究会 講演 
「インドの現状、将来そして日印関係について」

 清宮 おはようございます。まだちょっと早いかもわかりませんけれども、大体食事も済まされたようですから、できるだけたっぷり清さんの話を伺うことにして、これから始めたいと思います。
 皆さんのところに清さんの大体の経歴は配布してありますのでおわかりだと思いますけれども、三菱商事でとにかくインドに前後十九年おられた。日本でこれだけ長く向こうで、しかも言葉をちゃんと専門に外語で学ばれて、行かれたわけですから、これだけ深く勉強しておられる方はないのじゃないかと思いまして、きょうは来ていただきました。槙原さんにも伺ったら、彼が第一人者だよ、ということを言っておられました。現在は三菱商事を退かれておられますけれども、今でもしょっちゅう行き来をしておられるようで、ついこの間帰ってこられて、今度は再来週ですか。またすぐに行かれるようですから、生々しい現地の状況もよくご存知だと思います。
 それでは、早速、清さん、よろしくお願いします。

 清 好延氏
 実は東京外国語大学のインド語に入りまして、自分の選んだ語学の話されている国が一生を懸けるに足る国かどうかというのを学生時代にみておきたいという気持ちがありまして、その当時、インド語の学生三人で「日印親善学生使節団」というのをつくりまして、日本の企業の方々から協賛を得まして、六一年に三カ月ほどインドにまいりました。その時、船で行きまして、カルカッタに上陸して、一周回ってカルカッタへ帰ってきて、帰りは飛行機で、DC3かなんかそんな小さな飛行機だったと思いますが、それでホッピッグで帰ってきました。
 その時、帰りの飛行機の中で感じたのは、インドというのは複雑怪奇な国だな。どうも二十年ぐらい住まないとわからないんじゃないか、というのが私の印象でした。ということは当然、一生懸けるに足る国だということは大前提として飲み込んじゃったみたいなのですね。それですぐインドに行かせてくれる会社を、というふうに探しまして、たまたま三菱商事に拾っていただきまして、三菱商事の駐在員としてカルカッタ、デリー、デリーと十六年駐在しまして、その後、日印調査委員会という日印間でつくった合同委員会みたいなものの事務局長を仰せつかりまして、そこで海部(俊樹)先生を名誉会長に頂いて、インドとの間でいろいろなセミガバメント的なコンタクトをして、その後、JICAのほうから、インドに商工会議所連盟というのがあるんだけど、そこへ座ってくれないかと。で、対印投資促進ということで、インド商工会議所連盟のジャパンセルというところに三年間座りました。それで合計十九年インドにいることになったのですが、私の最初の直感の二十年にはまだ一年足りませんので、私のインド論も多少不備なところがあるのではないかなと。こう思って、話を進めたいと思います。
 インドといいますといろんな方がいろんなことをおっしゃっています。その方々の言っていることはみんな正しいというふうに僕は理解しています。〃群盲象をなでる〃という言葉がございますけれども、インドは多様性の国ですから、なでたところによって違った印象を皆さんが持ってくる。したがって、いろんなマスコミ、あるいは本なんかで紹介されているインドそれぞれが全部正しいと。お経の文句ではございませんが「如是我聞(我かく聞けり)」という意味で、我かくインドをみたよ、という感じで皆さんがお書きになっている。これは皆、正しいことだと思います。ただ、それはごくごく一部のものをみているにすぎなくて、全体を論ずる、あるいは断じたりしてはいけないのじゃないかなというのがインドの正直な印象です。
 日本に来ているインドの影響というのはずいぶんいろいろありますけれども、インドは日本に対して非常にいろいろなものを与え続けてきました。皆さんご存知の地鎮祭なんかに行きますと祝詞をやりますが、祝詞の一番最初に神主さんが(大声で)「アーウームー」と言います。これはオウム真理教のオウムでもありますけれども、インドでもこれは神音(しんいん)ということなのです。いつの時代か、仏教が入る以前だろうと思いますが、日本へこれが伝わってきて、日本では神を呼び出す音だということで、祝詞の最初に付けるということが行われたのだろうと思います。
 それから仏教が入ってきまして、仏教が入ってきた時に、詳しい話はやめますが、一つだけ。日本の神道では終わりに対する結末のつけ方が非常に難しくて、人が死ぬと汚れたものとして、洞窟の中に捨ててくるというような考え方があったわけですね。それが黄泉の国の入り口がどうのこうのという話になるわけですけれども、仏教の中で終わると来世があるという考え方、要するに終わりを非常にきれいに処理してくれるのが仏教だということで、この終わりの思想が日本に入ってきまして、人間だけじゃなくて、すべてのものの終わりに供養というのを持ってきて、針供養だとか、ウナギ供養に至るまで終わりに関してはこれでけりをつけるという習慣がついた。これは一つの仏教の知惠をそういうふうに日本人は利用したのだと思います。
 聖武天皇が大仏をつくって、この開眼式をやろう、入魂式をやろうと言った時に、日本の坊さんは恐れ多くて開眼式なんか要しきらんということになったのです。それで中国へ坊さんを呼びにいくのですが、中国の坊さんは「エッ、倭の国。そんな国へ行くなんて」と言って、誰も手を挙げないんですね。その時に南インドから出てきていた仏教徒が中国におって、仏教の坊さんだろうと思いますが、名前も今、伝わっていないのです。菩提僊那(ボッデセイナ)という言葉だけで、菩提というのは仏教という意味です。僊那というのはグループを表すことですから、仏教徒というような意味でしか今、伝わっていないのですが、この菩提僊那さんが日本へ来まして、大仏開眼の供養、マスター・オブ・セレモニー(MC)をやるわけです。それで終わった後、彼は中国へ帰って中国の坊主の下で下積みをやるよりは、日本で大事にしてくれるのだから日本にいたほうがいいということで居続けまして、ここで梵字、梵学を教える。これが奈良五山の開祖じゃないかと僕は思うんです。これがずっと脈々と日本のサンスクリット学につながっているわけです。
 明治時代になりまして、その当時の日本の偉い方々、明治時代はすごく偉い人がたくさん輩出したわけですが、その中で西欧を勉強して、英語だとか、フランス語だとか、ドイツ語だとか西欧の言葉にはグラマーというものがある。日本もグラマーをつくらなきゃいかんということでやろうとして、まずつくらなきゃいけないのは、英語だったらアルファベットがある。日本にも何か音韻表をつくらなきゃいかん。いろは四十八文字でもあるまいということで、五十音というのを日本は明治時代に定めたわけです。この五十音というのはどこから出てきたかといいますと、私は外語のインド語へ入ってびっくりしたのですが、私が習ったのはヒンドゥー語です。ウルドゥー語も習いましたが、ヒンドゥー語の辞書の並び方はアイウエオで始まっているのです。最初がアなのです。その次がイウエオ、その後にサンスクリットのリという母音があって、その次がカキクケコなのですね。なんと日本の五十音という気はサンスクリットの音韻表をお借りしてつくったものなのですね。これは日本の小学校でも、中学校でも、高校でも、大学でも教えてくれないんですよ。インド語やった人だけが、ウーン、そうか、というのがわかる。もっとはっきり紹介すればいいと思うんですがね。
 それから非常に日本的なものだということで評価されているお能の謡、これが実はインドの影響を受けているのです。と言うとちょっと変に聞こえるかもしれませんが、インドでは『四大ヴェーダ』といいまして、神に捧げる讃歌を集めた「サーマ・ヴェーダ」というのがございます。「リグ・ヴェーダ」というのは哲学的な要素で、「サーマ・ヴェーダ」というのは神に捧げる歌を集めたものです。この「サーマ・ヴェーダ」の歌をうたう歌い方がいまだにインドでは伝わってきているのです。これが当時生まれたインドの仏教のお経の上げ方に影響を与えまして、このお経が中国、韓国を通って日本へ来て、日本のお経の上げ方だとか、声明なんかにつながっている。室町時代に世阿弥がそれのいい部分を取って、今の謡というのをつくった。だから謡というのは今、インドに残っているボーカルとちょうど〃はとこ〃ぐらいの関係になるのかなと。ですからインドが歴史的に日本に与えた影響というのはずいぶんいろんなところでいろんなものがございます。
 急に戦後へ飛びますけれども、サンフランシスコ条約の時に例のパール判事というのが、裏のことはいろいろありますけれども、とにかく戦勝国が敗戦国を裁くようなやり方は正しくないということで、インドはサンフランシスコ条約の批准を蹴りまして、日本と独自に平和友好条約を結ぶのです。日本はインドに対してニコバル・アンダマン諸島およびインパール作戦等で多大な迷惑をかけているにもかかわらず、インドはその平和友好条約の第一番目のところで賠償の放棄を宣言しています。戦勝国が敗戦国から何かもぎ取るというのは結局、歴史は同じようなことを繰り返すだけだという原則論でもってインドはそれをはねるのです。それで独自に平和友好条約を結んでくれている。
 それからこれは森(喜朗)総理が最近、インドへ行った時に言ったのですが、戦後、日本の製鉄メーカーさんが一ぱいずつ鉱石を買って、ようやくしのぎながら鉄をつくっていた時にインドが初めて長期契約で鉄鉱石をサプライすることをやってくれた。しかもできた鉄をその当時アルゼンチンとインドが大量に買ってくれまして、それで日本の製鉄業というのは回転していくようになった。それからまたインドはインド国民軍、インディアン・ナショナル・アーミーと言いますが、チャンドラ・ボースに代表されて、日本にどうのこうのというのがありますけれども、この話はまた後でやります。
 そんなインドが一九八〇年代、僕に言わせれば世界的なウィルス性の熱病にかかるのです。非常に面白いのですが、一九八〇年代というのはゴルバチョフ、鄧小平、インデラ・ガンジーという非常に優れた社会主義国のリーダーが現れた時です。この人たちは非常に頭が良かったものですから、彼らが自分の国内を旅行する時に自分たちのスケジュールが分刻みでピシピシといっている。だが、待てよ。外国へ行くと一般の人もみんなそういうふうにいっているのじゃないか。自分の国に来ると自分のスケジュールはそうだけれども、〃一将功成りて万骨枯る〃で、一般庶民のスケジュールはそうなっているか。生活はそうなっているか。一人の大名が快適に生活するノウハウはあっても、その藩民全体が幸せに生活するノウハウは自分の国にあるかいなあ、ということに気がついたのは、この三人だと思うのです。その結果、ゴルバチョフは「ペレストロイカ」ということを言い、鄧小平は「外国文化の学習」ということを言い、インデラ・ガンジーは「近代技術の導入」ということを言って、自分一人、トップの為政者だけが快適に過ごす生活ノウハウじゃなくて、万民が幸せになるようなことを考えなきゃいけないということに思い至ったのです。その結果についての議論はここでは僕はやりません。
 ただ、インドはこのインデラ・ガンジーの宿題を官僚が勉強するのです。七年にわたって研究した結果、その間にインデラ・ガンジーは死に、ラジブ・ガンジーがどうのこうのというのがありましたが、一九九一年に門戸開放、経済自由化、これをやらないと近代技術は入ってこないということで、インドはその当時、マハトマ・ガンジーの言っていた「セルフ・リライアンス(自給自足、自立)」ということから、「国際相互依存(インターディペンデンス)」というほうに百八十度方針を転換するのです。ご存知のように外国文化の学習ということをやったために、中国の若い人たちは外国文化の学習というのは映画や本を読むのじゃなくて、ディスコへ行って踊ることであり、選挙をやることじゃないかということで、天安門まで行っちゃったわけです。ペレストロイカをやった結果は、ソ連が消滅して、ロシアになっちゃったわけです。インドは政権はその後、替わりましたけれども、マハトマ・ガンジーの方針を百八十度転換した、国際的にもみんなで仲良くやっていこうというほうに方針を転換して、外資を歓迎してということを一九九一年にやって今日に至っております。
 インドの現状なのですが、実はアメリカのクリントン大統領が現職の大統領として、二〇〇〇年にインドに五日間滞在するのです。往復にかけた時間を考えると約一週間かけてインドにいるのですね。現職のアメリカの大統領が五日も滞在する国がほかにあっただろうかというふうに考えますと、これは大変なことなのですね。なぜこんなことが起こったのだろうか。実はアメリカは今やインドなしにはやっていけない状態になっているのです。これはちょっとオーバーな言い方だなとお思いになるかもしれませんが、アメリカの経済界がユダヤ人なしでは動かないと同じように、アメリカのIT産業、情報関係産業はインド人なしには動かなくなっているのです。現在、世界に出ているインド人は二千万人いると言われています。そのうち三百二十万から三百五十万人がアメリカにいると言われています。この間、外務省が発表した数字によりますと、アメリカにいる日本人の数がちょうど三十万から三十五万の間ぐらいの数字だというふうに言っていますので、その十倍のインド人がアメリカにいるのです。このアメリカにいるインド人は通常三つに分けて分類されています。第一のカテゴリーに入るのはニューヨークを中心にして住んでいる貿易商だとか、宝石商です。トラディショナルな商売をやっている。結構小金をためて、いい暮らしをやっているようです。第二番目のグループが医者、法律家、技術者、こういう人たちで、非常に真面目にアメリカで勉強して、今、アメリカでドクターシップ(博士号)を取るのはインド人が一番数が多いそうです。アメリカ人も入れてですよ。そのぐらいインド人は真面目にアメリカで勉強しているのですね。そういう人たちが第二のグループをつくっています。第三のグループがIT関係です。
 実はインドは一九四七年の八月十五日に独立しました。ご存知だと思いますが、実は八月十四日の二十三時五十九分にパキスタンは独立するのです。一分インドより早いんですね。要するに自分の国はインドと違うんだということをアピールしたがために、そういう小細工をやったわけです。この辺、非常に面白いのですけれども、ネパールとインドの時差が昔は十分だったのです。十分というのはいかにも困るというので今は十五分、ネパールのほうが進んでいるのです。ネパールの王様の考え方としてはネパールはインドより進んでいなきゃいけないということで、十五分時差を上げてあるのです。しかもネパールの話をしますと、ネパールという国は貧しい国であるから、ほかの国が休んでいる日常も働かなきゃいかんということで、日曜日は休みじゃないのです。オフィスは開いているのです。お役所もやっているのです。その代わり土曜日を休みにしてやるというおとぎの国みたいな国がネパールです。こういう国がインドの周りにはあります。インドの周りの国は一つの塊をつくっておりまして、その中でインドが図抜けて大きくて、その次にパキスタン、バングラデシュ、ネパール、スリランカ、ブータンなんていうのがくっついてあるわけですけれども、判官びいきというんですか、日本人で結構ネパールびいきの人がいるのです。この話は後で出てきますけれども、そういうことでアメリカにいるインド人というのは、ほかのエスニックの国々の人とは違いまして社会的に非常に高い評価を受けておりまして、政治のロビー活動なんかでもかなりの発言力を持っているというふうに言われております。
 インド人は先ほど二千万人いるというふうに申し上げましたけれども、アメリカからアジアも含めて各国で代議士だとか、大臣だとかというふうになっている人が結構いるのですね。これはびっくりするぐらい数がいます。そのぐらいインド人というのは国際的に活動していますし、ロンドンなんかのシティ、いわゆるマーケットでは、いろんな部門で大きな役割を占めているのもインド人です。このインド人が一九四七年に独立して、僕は外語に入ったのは昭和三十三年ですけれども、その当時、外語に来るインドの専門家の先生方はウソを教えていまして、インドの高級官僚や財界人は子弟を英国へ留学させて勉強させているということを盛んに言っていたのです。実はそうじゃなくて、その当時、インド人はもう英国に見切りをつけて、次はアメリカだという見通しでもってアメリカに自分の子弟を留学させていたのです。で、アメリカで非常に優秀な成績で大学を卒業するのですが、ご存知の通りアメリカというのは非常に人種差別の激しいところでして、有色人種がなかなかいい職に就けないのです。伝統ある立派な企業なんかにカラードはアメリカ人に伍して仕事に就けないというのが当時のアメリカだったと思います。
 その中でそのころ台頭してきたシリコンバレーを中心とするIT産業にインド人が入っていくのです。IT産業ですからベンチャー企業が非常に多かったのですが、そういう中でインド人が活躍して、だんだんそういうIT産業の中核をなすようになっていくのです。アメリカ人がトップで、その下にインド人が就くような格好で、たくさんのIT会社がシリコンバレーを中心にできました。それでインド人に、お前ら優秀なインド人だな。お前らみたいな優秀なインド人はアメリカへ来るけど、本国にはそんなに優秀なのはいないだろう、とアメリカ人が問いかけると、インド人は、そんなことはないよ。インドにはゴロゴロしているよと。エッ、ほんと? それだったらばプログラムのバグのチエックぐらいインドでできるかな。うん、できるよ、と言って、ソフトウエアのバグのチエックをインドに任せたのがインドのIT産業の始まりなのです。最初にアメリカのプログラムのバグのチエックを引き受けたのが、今では世界有数なコンピュータソフトウエア開発会社になっているタタ・コンサルタンシーという会社です。タタ・コンサルタンシーがバグのチエックをやると、ちゃんと期日通りやる。しかも、非常に緻密にやるということで、バグのチエックはインドという定評ができまして、どんどんそれをアメリカ人がインドに頼むわけです。そのうちにこのコンピュータのこの塊のところぐらい向こうでできるんじゃないの。いや、もう少しこの幹あたりは、そのうちにこのプログラムをトータルで全部、というような格好で丸投げするというようなところが出てきて、航空会社の管理システムだとか、証券取引所の管理システムなんかを総合的にインドが開発するような格好になっていくのです。
 ご存知のようにアメリカのカーネギーメロン・ユニバーシティというところに私の名前、SEI(Software Engineering Institute)というのがありまして、これはアメリカの国防省が肝入りで、そこの大学にソフトウエア開発会社のランキングをやることを任せたのです。なぜかといいますとアメリカの国防関係の企業が何かコンピュータのソフトウエアの開発を頼む時に、どの会社にどのレベルのものを頼むかというのがわかるように会社のレベルをつけよう、ランキングをしようということが最初の考えだったと思います。これでレベル1からレベル5までありまして、レベル5が一番上なのですが、二〇〇二年のレベル5の会社は全体で六十九社あります。そのうち四十六社インドの会社でした。アメリカの会社は十一社。これが二〇〇四年の五月にはインドの会社はレベル5が七十五社がです。昨年の十二月、インドの会社は八十五社がレベル5です。残念ながら日本の会社でレベル5までいっているところは、大変失礼な話ですが、まだないというふうに僕は理解しています。今、インターネットで調べると、麗々しく自分の会社はレベル3であるということを言い切っている会社が何社かあります。オムロンさんがそうですし、日立さんがそうです。だけど、レベル3なんていうのは恥ずかしくてインドでは言えないんですよ。レベル4というのもインドでは恥ずかしくて言えないくらいなのです。日本はまだレベル3の段階なんですね。このくらいインドと日本のソフトウエアに関する差がついちゃっているのです。それで非常に困るのは、レベル5の会社に対しては欧米の会社はプログラムを全部丸投げするのです。これやってくださいと。もちろんイギリスやアメリカで開発するわけじゃなくて、インドでオフショアでインドの会社でやるわけですから、向こうの人件費でやれますから実質的には安い。だけど、安いとか安くないとかじゃなくて、これだけ高度のプログラムを開発してくれるところは、ソリューションを与えてくれるのはインドの会社しかないという理解なのです。日本ではそうではなくて、インドの会社にソフトウエアの開発を頼めば安くできるのじゃないかというような考え方でまだインドをみている。その辺が非常に残念なところですね。
 森総理が盛んにITというのを言いだした時に日本の会社も自分の会社が世界でどの辺にランクされているのだろうということで、アメリカのコンサルタント会社にある大手がどのくらか判定してくれと頼んだことがあるそうです。そしたらアメリカの会社が膨大な金を取って調査して、おたくの会社はレベル2であると。レベル2だとやっぱりまずい。総理も言っているんだしということで、レベル3にするにはどうしたらいいかと言ったら、その会社が社内教育をいろいろやって、システムをつくり換えて、四十八カ月かかると言ったそうです。お金もべらぼうなことを言ったそうです。その会社はびっくりして、インドの会社に打診してみた。コンサルタントのビフラという会社です。そしたらそのインドの会社がレベル3にするには二十四カ月でできるでしょう、と言ってくれたというのです。費用もアメリカほど高くない。その後、その会社がどこにどういうふうにしたかという情報は私は知りませんが、というようなことで、インドのソフトウエア関連はものすごく進んじゃっているのですね。
 どんなに進んでいるかという一つの例として、アメリカのNASA、IBM、マイクロソフトなんかにいるインド人の率というのが半端じゃないのです。これは数年前のデータなのですが、NASAの三六%がインド人だそうです。マイクロソフトは三四%、IBMは二八%、インテルは一七%、ゼロックスは一三%。そういうところにインド人が入っているのです。そうするとアメリカのコンピュータ業界というのは全部インド人に筒抜けになっているわけです。したがって、ペンタゴンにインド人が入っているかどうかというのは知りません。けれども、ペンタゴンに納めるソフトウエアをつくっている会社には全部インド人が入っているわけですから、おそらくペンタゴンにあるコンピュータは全部インド人がハックしちゃっていると思うんです。
 インドは一九七四年に核実験を行います。この時の核実験の装置というのは小学校の教室ぐらいあったというふうに言われていました。一九九八年、インドは核実験をやります。この時はもう戦略核になっていて、弾頭に付けけられるようなところまでコンパクト化されていたというふうに言われています。ウソか本当か知りません。僕は見ていませんから。その時に核実験が行われて、日本は唯一の被爆国として、当然のことながらインドに対して抗議をしました。その時の総理が橋本(龍太郎)さんですが、橋本さんがすぐに、やった日の夕方です。無償停止ということを宣言したのです。ここのところでおかしなことが起こったのです。これは世界のマスコミもそうなのだけれども、日本の外務省の悪口を言うわけではないのですが、抗議はしたのですけれども、誰一人として「これで実験は終わりですか」と確認しなかったのです。で、インドは二日後にまたやったわけです。そうすると一回目にやった時に無償停止と言った橋本さんは、二日後にやった時に円クレ停止と言わざるをえなくなっちゃったのです。それで中国より厳しいペナルティがインドに課されるような結果になった。その後、G7で橋本さんは出かけていって、「サンクション」という言葉をインドに対して使ったのです。ところが、出席したほかの六カ国は「サンクション」という言葉はオーケしませんで、「カウンターメジャー」という言い方でもって措置を取るという格好だけでやったのだけれども、日本のサンクションだけがインドで一人歩きするような格好になって、橋本総理は後で非常につらい目に遇うような格好になりました。中国が核実験をやった時、日本は無償停止だけだったのです。円クレ停止までいかなかったのです。インドの場合はそういうようなことがあって円クレ停止までいっちゃって、ここのところで今はやりの言葉で言えば空白の何年間というのができちゃった。これは非常に残念なことです。
 実はそういうインドはアメリカの戦略核に関してもコンピュータをハックしている可能性が十分ありましたし、七四年に核実験をやってから、いろんな研究をその後やっているわけですから、アメリカはインドが核実験をやった後、ちっとも驚かなかったのです。ただし、インドはやっぱり放っておくわけにいかないぞということで、九八年の核実験の後、一年半の間にその後、外務大臣になったジャスワント・シンとタルボット(米国務副長官)が八回会うんです。八回会って、インドとアメリカは世界戦略の話から、世界の核の話から、この地球上の問題について、あらゆる視点から話し合いを行うのです。それでお互いに理解し合って、アメリカはもうインドなしには世界戦略を立てられないなということを実感するのです。それでその後、クリントンが五日間インドに滞在するような結果になるのです。クリントンはインドへ行って何をやったかというと大したことやってないんですよ。ハイデラバードみたいな田舎まで行ってコンピュータ会社を見学したりというようなことをやって、とにかく五日間、クリントンはインドにいたのです。これほどインドとアメリカの関係が緊密になっちゃったのですね。もちろん根本的な哲学が違いますから同盟までは結びませんけれども、アメリカはもうインドを無視しては世界戦略は立てられないなというところまで来ちゃっているのです。
 そのインドで日本がどういうふうに評価されているかといいますと、実はインドの歴史の教科書、社会の教科書では、日本という国は日露戦争で初めてヨーロッパに勝った国だということで、日本の力を非常に評価しています。それからインドのお役人の上層部の連中と腹を割って話をすると、戦後の日本の外交というのは素晴らしいと。金のかかる軍隊に金を出さずに、それはアメリカの核の傘に任せちゃって、経済のほうに傾注した。この日本人の知惠というのはすごいね。アメリカを上手に使ったね、というのがインド人の分析なのです。ただ、日本は建前論が多すぎるねと。非核三原則とか四原則とか言って、核を持ち込まないとかなんとか言っているけれども、日本人は本当にアメリカの空母や戦艦が横須賀やそういうところに入ってくる時に、グアムやハワイで核兵器を武装解除して入ってきているというのを信じているの? そんな建前論は通用しないんじゃないのと。ですから実はインドともっともっと本気で本音でもって話ができるようなところまで突っ込んでもらいたいなあ、というのが僕の望みです。
 日本政府、官はインドで非常によくやっていると僕は思います。変な言い方ですが、よくやっているというのはどういうことかといいますと、私はここ十年間、「二十一世というのは唐・天竺・コンピュータの世紀である」というふうに言い続けてきているのですけれども、日本の官もその通りで、インド・中国・コンピュータというのは疎かにできないよというのは気がついておりまして、いろんな配慮をやった結果、今、ODAはインドが一番になっています。これはやっぱり官の努力だと思います。それから普通の国に対しては集中豪雨を起こして何か問題が起こった時、何とか研究会というのが行われるのですが、インドの場合は問題が起こる前から通産省、大蔵省、それぞれの部署でインドに対する研究やシミュレーションが行われていて、インスティチューショナルな研究がインドに対しては先に進んでいるのです。民間が集中豪雨を起こす前にこれが行われている。これは官主導でやったのだろうと思います。そのぐらい官はインドに対する認識はしっかりしていたと思います。
 民は、これはちょっと残念なのですが、ちょっと遅れているような気がします。もちろんメリットベースでやるわけです。それで結構ですが、今、中国に進出している企業は二万社というふうにこの間、毎日新聞に書いてありましたが、インドに進出している日本企業は約二百社、百分の一です。これでいいのだろうかなというのは正直なところです。二万社、中国に進出している日本企業、そのうち何社が儲かっているかというデータはないから知りませんが、いろいろ聞いてみると、どうも二~三割は儲かっているけれども、ひょっとしたら八割ぐらいの会社はまだ赤字じゃないかという噂を聞きます。インドに進出している会社はメーカー関係で百六十社前後、商社とかサービスを入れて二百社ぐらいになるわけですが、おそらく八割が黒字で経営しています。残りの二割も一~二年すれば黒字になるという目算をみんな持っています。このくらいインドは儲かるところだというにもかかわらず、みんな口チャックで儲かった話をしていないから、この事実があんまり日本に広まっていないのです。民は石橋を叩きながらメリットベースでインドに出てくる。過去にインドでひどい目に遭ったという経験が経営者の方々にあるせいだろうと思うんですけれども、ちょっと出遅れている感じがします。ちょっと出遅れているというのは、実は韓国に比べてというのが僕の念頭にあるのです。韓国は四大財閥をはじめロッテまで含めて大挙してインドに進出してきているのです。すごいです。ラッキーゴールドスター(金星)だとか、サンスイだとか、現代だとか、ダウムはちょっとあれですけれども、白物電化製品は韓国がインドを席巻しているような感じです。
 民はメリットベースでやっているから中国に比べれば出ているのが少ないから、ちょっと残念ですけれども、一番遅れているのが政だと思うんです。政界の方で、インド人と腹を割って話のできる政治家が何人いるのでしょうかという疑問があるのです。僕はぜひそういうコネクション、パイプをつくって、建前論だけじゃなくて、インドはもう七四年に核実験をやっているんだ。それが九八年までたって戦略核まで昇華するのは当然でしょうと。そういう中でインドは原則論として核をすでに持った五カ国だけが世界にどうのこうのと言うのはよくない。核を持てる実力のあるところは、持っているなら持っていると言うべきじゃないかということで、はっきり宣言したわけですけれども、そういう本音で話せる国と本音で話す政治家が出てきてもいいんじゃないかなあというふうに僕は感じています。
 インドは、さっき日露戦争の話をしましたけれども、日本に対して秋波を送り続けてきているのです。ただ、送り方が不器用なもので、日本ではなかなかそれを感じないみたいなのですけれども、実は一九九一年に門戸を開放した時に、その当時、マンモハン・シンがこのドラフティングをアショカ・デサイという男と七年かけてやっているんです。その時に僕はマンモハン・シンに会って聞いたのでよ。そしたら実は日本に出てきてもらいたいというのを念頭に置いて、この門戸開放をやっているんだよ、ということを彼は言ってくれました。だけど、私の小さな声は会社でもどこでも取り上げてくれませんでした。ただ、ソニーさんがインドへ進出する時に、こちらへ出てきたインドの首相がソニーさんのどなたとお会いになったのか。あの時は盛田(昭夫)さんですかね。十五分間会っているはずなのです。その時にソニーさんのほうから、ソニーがもしインドへ出てくるんだったら一〇〇%で出るよと。それからもう一つ、カルカッタの眼鏡屋がソニーという商号を使っているけど、こういう知的所有権の問題について、インド政府がそれなりの措置を取ってくれないとソニーはインドへ行きませんよ、ということを言ったのに超法規的にインドは対応して、一年半以内にその条件を整えて、ソニーさんの進出を大歓迎するような格好になったわけですが、その時にインド側は条件をつけて、ソニーさんのほうに最新技術を持ってきてくれよ、ということを言ったと思います。これも秋波の一つで、その当時のアルワリア次官に僕は聞いたのです。なぜソニーにそういう特別措置をやったんだ、と言ったら、破顔一笑、アルワリアは、ソニーを入れたということはショーウインドー効果があるからだ、ということをはっきりきました。インド政府はそういう超法規的なこともやるのです。ただ、そのウインクを日本側はきちっと感じていなかったような気がします。
 それからYKKがファスナーで向こうに出ようとした時に、YKKのファスナーというのは向こうの中小企業向けにリザーブされた業種なのですけれども、タロンに並ぶ世界のYKKが出てくるのであれば、特別にそれを認可しましょうということで、中小企業のほうを抑えて、YKKに進出の認可を与えています。また、日立さんが現地法人化をしようとした時に、何でそんな肝の小さいことを言うの。ホールディングカンパニーつくっちゃいなさい。そして日立がいろんな分野で全部投資ができるような格好の会社にしなさいよ、とインド側から言われて、日立はホールディングカンパニーの現地法人設立をやるのです。ただ、日立さんはまだそこまでいろんな分野に進出していませんけれども、ほかにそんな認可をもらった会社はないんです。それからジャイコという小さな会社があります。これは学生です。学生が一千万ぐらいの観光会社をベナーレスというところにつくろうと。それに対してインド政府は六億ルピーまでオーケーしたのです。好き放題やっていいよと。だからこの会社は将来、ベナーレスで大観光事業をやるとこまで発展できる可能性を持っている会社です。
 それからラジブ・ガンジーがインド祭で日本に来た時にファーストトラックというのやって、日本側とインド側で何かもめ事が起きたら、そういう窓口を使って解決したらいいんじゃないですか、ということを提案して、それができたのです。ただ、日本側はこれを勘違いしまして、インド政府といろんな政策論をするところだと思っちゃったのです。ところが、これはそうじゃなくて、問題が起こったらそこへ行くと、千葉に昔できた〃すぐやる課〃みたいな格好で、すぐ取り上げて解決してくれるんですよ。僕はその理解をしていましたから、税金だとかなんとかで問題が起こるとすぐそこへ行ってやると、すぐその場で税務署長に電話をかけてくれて、この問題こういうふうに措置しないさいとやってくれる。そういうことをやってくれる窓口をつくってくれたのです。それを漏れ聞いた西独が日本だけにそういうのをつくるのはけしからんと言ってインド政府にねじ込んで、後から西独にもそういう窓口をインド側は嫌々ながらつくるのです。日本にいつもそういうふうに配慮しているのです。
 それから小山五郎さんと森総理に対して勲章が与えられましたね。これは先ほど言った橋本さんと非常に対照的なのですが、橋本総理は総理を終えた後もいろんなセミナーだとかなんとかで呼ばれて、インドに行く機会があるのですが、橋本総理が行っても、インドのお役人だとか大臣、誰も会ってくれないんですよ、大使館がいくらやっても。これは中国に対して無償停止したのに対し、インドに対しては「サンクション」という言葉を使い、円クレ停止までやった橋本総理に対するインド側の一つの措置じゃないかなというふうな感じがします。インドは非常に思慮深く過去のことも分析してやっています。その裏には、インド側の調査が行き届いていまして、橋本総理がネパールびきだというのをインド側はちゃんと知っているのです。その辺のことをインド人は非常に正しくやっています。
 それから三菱総研に中島正樹さんという方がいらっしゃいましたが、この方が要するに戦争というのが起こらなくなった時にどこかに息抜きをつくらなきゃいけないということで、グローバリズムということを永野重雄さんあたりと言いだしたわけです。世界的な大規模プロジェクトをいろんな国家を挙げてやって、そこで軍備に使うべき技術だとかなんとかを……ということで、例えばマレー半島に運河をつくるだとか、いろいろあって、その中の一つがヒマラヤの水をデカン高原に、というようなのがあったと思います。その話を中島正樹さんがインドに行った時にあるところでポロッとやったのです。それを聞いたインデラ・ガンジーが、それは素晴らしいアイデアだ。ぜひ一度、座を設けますのでインドへ来て講演をやってください、と言うのです。で、インデラ・ガンジーは死んじゃいました。その後、この言葉はラジブ・ガンジーに引き継がれて、中島正樹さんはインドの国賓として呼ばれて、アショカホテルに泊められて、インドのお役人を集めて講演会をやるのです。インドはそのぐらいに日本に対して配慮をしているのです。
 先ほどちょっと言いかけましたが、チャンドラ・ボースを中心にしたインド国民軍というのがございまして、日本軍と一緒にインパールやニコバル・アンダマンに攻め入るわけです。インドにだいぶ迷惑かけるのですが、インド政府はもう恩讐の彼方です。このインド国民軍に参加したインド人の兵士に恩給が出るんですよ。それはもちろん英国軍の下でインド側で戦った兵隊に比べれば率は少ないにせよ、日本軍と一緒に戦ったインド人の兵隊さんに対しても手当てが出る配慮をしているのです。その当時の日本側についたチャンドラ・ボースもちゃんと英雄として国会に掲額されて、讃えられているのです。このくらい日本に対してインドはウインク、秋波を送り続けているのですが、日本はそれにこたえていないような気がするのです。
 インドというのは一言で言えば多様性の国です。それで民主主義の国です。この前、大統領だったナラヤナンという方は不可触民出身の方です。大統領といえば元首ですよ。不可触民出身の人が元首になる。現在の大統領は回教徒です。インドでは一二%しかないマイノリティーの代表が大統領です。現在の首相のマンモハン・シンはシーク教徒です。人口の一%ぐらいしかいないのです。それが首相になっているのです。インド人は非常に不器用な面がありまして、日本人の扱い方を知らないのです。その点、中国人なんかは日本人の扱い方をよく知っているような気がします。インドはまたカレーの国です。それから非常におしゃべりです。皆さん数カ国語、あるいはインド国内では言語がいっぱいありますから幾つかの言語を操ります。こういうところが日本と全然違います。けれども、こんなに違うインド、これは日本でこの間、旭日大綬章をいただいたアスラニ元大使、外国人は珍しいのですけれども、この方が「サイコロジカル・ディスタンス(心理的な距離)」という言葉を使っていらっしゃいますけれども、インドと日本の間にはそういう心理的な距離があります。全然違う国だというふうに感じられる面があります。
 ただ、共通点があります。その共通点は何かというと、これは僕、最近つくづく感じるのですが、インドと日本の共通点は木に竹を接ぐ能力を持っていた国だということです。日本の場合、江戸時代から明治、明治の天皇制からマッカーサー体制、自民党から村山(富市)政権、それでまた今の政権、こうみていますとずいぶんいろんなところで木に竹を接いでいるのですが、接いた時点で今、イラクやアフガンで起こったような暴動が起こって、日常生活が妨げられたことがあったでしょうか。ずっとスムーズに来ているのです。インドも英国からの独立、それからマハトマ・ガンジーのセルフ・リライアンスからインターディペンデンスへの百八十度転換、コングレスからBJP(インド人民党)への転換、BJPからコングレスに戻った時、全然混乱は起こっていない。国民の生活は乱されていないのです。木に竹を接ぐ能力を持った国だと言えます。先日、BJPAが負けた時にBJPの党首であるバジパイは何と言ったかといいますと、「BJPは選挙で負けたが、インドの民主主義が勝利した」と言ったのです。こんな国、世界でありますかね。一日もストが起こるわけではなし、騒動が起こるわけではなし、それだけの能力を持っている。そういう国がインドだと思います。
 ゴールドマン・サックスによれば、二十一世紀はBRICsの時代だというふうに言われますが、その中でインドは独自の発展をしていくと思います。アメリカに影響を受けることはあっても和して同ぜずで、付和雷同なんかせずに自分の主義主張を通していく国だと思いますし、違ったいき方をしていく国だと思います。例えばの話、もしエーリアンが地球に来た時に、おそらく地球代表として主はアメリカでしょう。副が中国でしょう。だけど、地球文化の哲学的なことを論じられるのは、ローマ法王じゃなくて、僕はインド人じゃないかなというような気がするのです。その時、日本人はおそらく勝手口のほうから行って、「えー、電機関係でどっか壊れたとこがあったら修理しましょう」ぐらいのことしかできないのじゃないかというような気がするんですがね。
 そんなインドと僕は長年温めてきた十大プロジェクトというのがあるのです。このうち幾つかはすでに日本政府が手がけているものなのですが、一番が、先ほどグローバリズムで言いましたけれども、ヒマラヤの水をデカンへ。これは悲願です。ヒマラヤの雪解け水というか、氷河のやつをデカン高原へ持っていきますと、まだまだインドには耕作可能な土地がたくさんありますので、食物の量産ができる。インドが今、中国に冷たい目に遭わないでいる一つの理由は、インドには余剰穀物があるからなのです。数千万トンの余剰が毎年出るのです。中国はある意味では飢えている部分がございますので、いざとなった時にシカゴマーケットからだけじゃなくて、インドからグレーンを入れたいという下心がありますので、中国はインドと対立しないという世界的な図式になっていると思います。
 二番目は、アメリカとインドが軍事演習もやっているくらいですから、日本も防衛関係でインドともっともっと協力し、例えばインドは赤道近いところにあるわけですから、宇宙開発、宇宙船の打ち上げ等もインドと協力してやっていったらいいのじゃないかなと。それから最近、マラッカ海峡の海賊の話も出ていますけれども、インド海軍と日本の海上自衛隊はもう実際に協力して、いろんな作業をやっているのです。こういうところをもっと進めていっていいのじゃないかなと思います。
 三番目として、ベンガル湾の原油および天然ガスの探鉱と開発です。これはぜひやっていただきたいなあと思います。
 四番目は、マラッカ海峡の平和開発。変な言い方ですが、言わんとするところは、ニコバル・アンダマン諸島をインドの軍事基地化するということじゃなくて、あそこに平和のシャングリラをつくろうじゃないかと。工業開発もいい、農業開発もいい、観光開発もいい、とにかく平和目的でニコバル・アンダマンを開発して、インドと日本が協力して、シンガポールやマレーシアを引き込めばマラッカ海峡の緊張が一挙に弱まる。これは素晴らしいプロジェクトになるのじゃないかなというような気がします。そういうところで日本は貢献すべきじゃないかなというような気がします。
 五番目は、インドのソフト開発能力を利用して、反対はあると思うのですが、世界最大のデータバンクをつくる。何のデータバンクかというと二十桁の地球人総背番号制をつくって、これにICを組み込んだIDカートを持てばテロが一切なくなるのですよ。どこで誰が何をしているということが把握できるのです。プライバシーがどうのこうのなんていう議論よりも、テロのがなくなるほうが先だというような気が僕はします。こういうことも考えてみたらいいのじゃないかなと。
 それから太陽エネルギーをはじめとするクリーンエネルギーの開発について日印というのは協力すべきだと思うし、七番目、バイオテクノロジーの分野でもそうです。例えば日本ですでに消えつつある筑波にある蚕糸研究所なんかをインドに移しちゃって、まだまだ絹が珍重されるインドで、この絹の技術を引き継いでもらうなんていうことも僕は素晴らしいプロジェクトじゃないかなと思います。
 先ほどのマラッカ海峡の開発の中に地震の研究なんていうのも入るかと思いますけれども、それは次の八番の海岸線の開発です。インドはいろんな理由がございまして、海岸線の開発が非常に遅れています。これはちょっと説明しますと、インドは北西のほうからアーリア人が入ってきまして、ヒンドゥー教というバラモン教徒をつくりました。したがって、その先祖たちが入ってきた方向が尊い方角にあたるわけです。だからヒマラヤは「神の座」と言われます。その対極にある海は悪魔の住むところだと。その海の中に浮かんだセイロン島は悪魔の島だということになっているのです。そのセイロン島には『ラーマーヤナ』でおなじみのラーマ王子が鬼退治に行くのです。だからいまだにインドの神話ではセイロン島は鬼が住む島になっているのです。海は悪魔の住むところだから、北西のほうから入ってきた海を見たことのないような人は海洋開発に意をそそがなかったのです。だから優秀な立派な家柄の人たちはあまり海のことに関心がなかった。したがって、海洋開発が遅れているというような事情がありまして、そういう意味では日本は海岸線が全部あるわけですから、こういう技術をインドに持っていくというのは非常にいいことじゃないかなということがあります。
 それからガンジス川が非常に汚れているのですが、日本の皇居のお堀が透き通ってきたのです。中途半端に透き通っているのですが、あれ以上透き通らせると底にある汚いものが見えちゃうから、あそこで止めてあるという説があるのです。そのくらい日本の水浄化システムの開発は進んでいるのです。これをガンジス川に持っていって、ガンジス川をまた復活させるというのは一つのいいことじゃないかなと思います。
 最後が、アジアの共通点というのを考えると何かといいますと、残念ながらアジア各国の共通点は脱亜なのです。アジアから脱出しようと。〃脱亜入欧〃までは言いませんが、脱亜ということを目指している。これがアジアの国共通なのです。これは非常に悲しいことなのですよ。二十世紀の三大イベントというのがあります。オリンピックであり、博覧会であり、ノーベル賞。これはみんな手垢が付いている。今、愛知は頑張っていますけれども、二十一世紀は二十一世紀のイベントがほしいんです。この二十一世紀のイベントの中には、アジア発信のイベントもあっていいのじゃないかなと思います。オリンピックでアジアの国がなかなか勝てないのはなぜか。これはオリンピック種目はほとんどがヨーロッパの種目なのです。テコンドーだとか、柔道の種目を持っていけば、アジアの国だって勝てるわけです。そういうふうにアジア発信のイベントもあっていいのじゃないか。そのためにはアジアの共通深層研究をやってアジアをずっと掘り下げて、アジアには何か共通意識はないのだろうかと。インド、日本、あるいは中国、そういうところを全部引っ張り込んでアジアの共同認識の研究というのをやって、三年かかるかもしれない、五年かかるかもしれないけれども、それでアジアにこういう共通のものがある。そこから何かを世界に対して発信できるようなことをやったらどうかなという気がします。
 もうだいぶお喋りしましたが、実は日本に紹介された仏教の中で、かなり重要なお経の一つに法華経というのがあります。法華経の中に仏陀の生まれたインドで仏教は廃れて、それが東の国で栄えて、それがもう一度インドへ戻るという釈迦の予言が書いてあると。こう言うのです。私が法華経を読んでもようわからんのですが、偉い坊さんが読むとそういうふうに読めるらしいのです。それでいろんな日本の宗教の宗派の方々がインドでもってもう一度、仏教を盛んにしようと。今、インドは仏教徒は六百万か八百万ぐらいしかいません。マイノリティーです。ということで一生懸命、活動しておりますけれども、今、インドへ日本の仏教を持っていくということは、南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏をインド人に唱えさせることではないという気がするのです。日本がここまで来れたのは、インドの仏教をはじめとするいろんな影響を世界の国々から受けて今の日本がある。その中で仏教のやった役割というのは非常に大きなものがある。その結果、今の日本の現状があるということで、今のこの日本の近代技術をインドへ持っていってやることが、仏教がもう一度インドに行くということにほかならないのじゃないかと僕は最近感じるのです。そういうようなことを最後に言って、きょうの私の話は終えたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

 
インド開発発展の可能性

技術同友会卓話 2005/2/15

自己紹介

日本人の苗字では清という苗字は、珍名まではいかないまでも、わりあい少ない苗字でございます。

バイオデータのほうに入れてございますが、昭和13年生まれ。いまの坂井さんと同い年でございます。三菱商事におりまして鉄鋼輸出、日本の鉄の輸出をずうっと手掛けておりました。

実は外語のインド語に入学しまして、在学中に一度、自分の選んだ語学が実際どんなところで使われているか見てみたいなということで、1961年、友人3人と数ヵ月インドを旅しました。その時、いろんな方にお世話になって、インドを一周回ってカルカッタまで帰ってきました時に持った印象は、『この国は20年住まないとわからないんじゃないかな』という素直な印象でした。

三菱商事に入社

それで何とかインドに関係あるところに就職したいなということで、たまたま縁あって三菱商事に入りまして、そのへんの話をするとくどくなりますからやめますが、その当時はまだ電話なんかございません。内定の電報が来るんですね。翌日、「内定ありがとうございました。ただし私のほうも条件があります。5年以内にインドに出してくれなかったら三菱商事辞めますけれども、それでよろしいでしょうか」と人事部長に掛け合ったんですね。そうしたら人事部長は「いいでしょう」と。本気でそう思ったのか知りませんけれど
も、とにかく入りまして、4年目にインド・カルカッタ駐在ということで出していただきまして、インドに都合、三菱商事から3回にわたり16年駐在しました。

日印調査委員会事務局長経てJICA専門家

その後、三菱商事を辞めて、大来三郎さんが昔やっていた日印調査委員会という会がございますが、そこの事務局長をやり、そのあとでJICAの専門家として対印投資促進ということで、インドの商工会議所に3年おりまして、足掛け19年インドにおったことになります。

ですから最初20年経たないとわからないだろうなといって19年ですから、まだ完全にインドをわかってない。あと1年、どうにかして駐在することができないかなということで、いま盛んに工作をしておりまして、できれば今年の中頃、三井金属さんの仕事で向こうへ1年くらい滞在したいなと。そうすると満願ということで、多少インドのことも言えるようになるんじゃないかと思いますので、今日は至らないところがあるかと思いますけれども、よろしくお願いします。

自分探し

先ほど私の清という名前について申し上げましたが、これもまったくインドに縁のない話ではございませんで、実は私の先祖は鎌倉時代のちょっと上まで遡れるのですが、大内という名前だったらしいんですね。頼朝に追われた日蓮が、富士川をずうっと遡って逃げてまいりまして、その当時、私の先祖は、いまの富士宮市に編入されております芝川村というところに住んでおりまして、日蓮をかくまったんです。そうすると頼朝のほうから、その地方の豪族に対して、日蓮をかくまうとかなんとかいうことがあっちゃいかんぞという指令が来ていたんでしょうね。先祖が呼ばれまして、「おまえ、日蓮をかくまってるんだろう。」「いや、かくまっていない。」と押し問答になったんです。
その時、さすが私の先祖だと思うのですが、「かくまってない証拠をご覧にいれる」といって、その豪族からもらっていた大内という名前を返上しまして、身の潔白をあらわす清というのを名乗り直したという大詐欺師でございまして、そのせいで私はずっとおしゃべりで、学生時代、英語で「SAY」と綴っておりまして、死んだらお墓に「SAID」と書いて、言い残すことはないというふうにしたいなという、そんな曰くのあった名前でございます。ですから鎌倉時代にできた姓で、清少納言とかそういうものとはまったく関係ございませんで、新しい姓ですね。

静岡県にそういう清というのがありまして、もう一つ九州の指宿のほうにも清というのがあるんです。元西鉄のピッチャーで清というのがおりましたが、これと関係があるかどうかは、そこまでまだ調べが行き届いておりませんで、そんな私ですから、完全な日本人です。

高校の世界史の中でのインド

実はインドと日本ということで、高校の世界史でだいたい1年の中で45分から50分かけて、インドのことを先生が教えるという時間配分になっているという話を、高校の先生から聞いたことがございます。

こんなこと皆さんすでにご存じのことだと思いますが、ちょっとインドのことを思い出していただくために繰り返しますが、この45分の中で、アーリア人が北の西のほうから入ってきて、ヒンドゥ教というかバラモン教というのをつくって、バラモン教には四姓制度というのがあって、僧侶階級、武士階級それから商人階級、奴隷階級、その下に不可触民――その当時は不可触賎民という言葉を使っていましたが――というのがあってという話が行われるわけです。カースト制度があってというようなことを言われるんですね。

なぜ日本の高校でそれだけ詳しくインドのことを、カースト制度まで教えるかといいますと、実は日本には仏教というのがあるわけですが、仏教はインドで生まれました。しかもそれはヒンドゥ教のアンチテーゼとして生まれてきたので、その仏教を説くためには、アンチテーゼの元になるバラモン教を教えておかないと、仏教の話に入れないということで、高校でカーストのことまで教えるというのが日本です。

それで最後は英国から独立してということで、インドの歴史は終わるわけですが、この話だけしていても一日くらいたっちゃいますので、それはそこでやめますが、それで仏教が日本へ入ってきたんです。

神道と仏教

その当時の日本では神道があったわけです。神道というのは、皆さんご存じだと思いますが、始まりの宗教なんです。ものの始まりについていろいろ哲学的に、現象的に説明しようというのが神道であって、終わりに関してその当時の日本はどうしていいかわからなかったんです。だから神道で終わりは、死骸は不浄なものということで、目に見えないところへ持っていって、黄泉の国へ捨ててくるというような感じだったんですね。

そこへ仏教が入ってきて、仏教が「終わり」ということを日本人に教えて、日本人はいたく感激したわけです。終わって来世があるなんて、すばらしい科学を持ってきてくれた。科学の一端として、そういう仏教思想が日本に入ってきて、なるほど、これで始まりと終わりがはっきりしたというので、日本人は始まりは神道、終わりは仏教で処理するような格好になっていったんですな。

日本人宗教

その間をつなぐのが儒教というようなものがあって、さらにこれを冗談めかして言いますと、楽しみのためにはキリスト教というのがあって、やれクリスマスだ。バレンタインだ。カーニバルだと。さらにそれをいくと戦いのためには回教。日本人くらい宗教心に富んだ人達はいないのではないか。こうインド人に説明すると納得してくれるんですが、インド人に対して「日本人は無宗教である」というとびっくりします。「えっ」とびっくりして、「How」というんですね。「Why」じゃないんです。

インド人にとっての宗教

なぜHowかというと、インドでは、インドに住んでいるあらゆる人がどこかの宗教に属しているんです。その宗教に基づいて日常生活が成立しているわけです、朝起きて夜寝るまで。あるいは生まれて死ぬまで宗教に依るのです。インドにある宗教はヒンドゥ教、先ほどのバラモン教がヒンドゥ教になりました。回教がございます。回教徒人口は12%くらいおります。そのほかにヒンドゥの一派から分かれたシーク教徒。ターバンをかぶった人達です。それからキリスト教があります。キリスト教も古いユダヤ教がずうっと流れてケララのほうに住み着いた非常に古いユダヤ教から、新しいクリスチャンから新教、あらゆるキリスト教があります。そのほかに仏教徒もいます。

そういうふうにあらゆる宗教がインドにあるんですが、それのどこかに属しているんですね。だから宗教に属さないで、どうやって生活ができるの?ということでHow、いかに生きていくんだという質問になってインド人から返ってきます。このへんが日本人の宗教観とインド人の宗教観のものすごく違うところです。

三大社会主義国

こっちの話もすごく面白いんですけれども、これも時間がかかりすぎますので、こっちのほうへ置いときまして、実は世界三大社会主義国という時代がありました。それはソ連と中国とインド。これが人口的にも非常に大きくて、社会主義国といわれるレッテルが張られたわけです。
その当時、1980年代ですけれども、ゴルバチョフだとか鄧小平だとかインディラ・ガンジーだとかいうすごく優れた人が指導者となって、三大社会主義国が世界で存在していたわけです。こういう国の独裁者に近い人達が外国へ旅行すると、分刻みでスケジュールがずうっと行って、ピシッと終わる。彼らが国内で何かやる時も、ピシッーといくんです。
この人達は、それだけのトップに立つ人ですから頭がいいんですね。よく観察してみると、外国では自分だけじゃなくてほかの人も、一般の人もピシッとやっているようだと。だけど自分の国に帰ってきてみると、自分はピシッといってるけれども、ほかを見ると、どうもそうではなさそうだ。『一将功成って万骨枯る』ような格好で国が運営されている。これはおかしいぞと、さすがに頭のいい方々ですから、いまの隣の隣の国の人とちょっと違いまして、そのへんに気がついたんですね。

それで時期をだいたい同じゅうして、この3人が言い出した。ゴルバチョフが言い出したのは『ペレストロイカ』鄧小平が言い出したのは『外国文化の学習』インディラ・ガンジーが言い出したのは『最新技術の導入』ということを言い出したんです。それぞれがこれをやらないと、自分の国は日本やアメリカみたいに、あるいはヨーロッパの国みたいに、万民が幸せになれないんじゃないかということを感じたわけです。

例えば私、三菱商事の駐在員をして向こうへ行って、副社長がインドへ来るなんていうことになりますと、飛行場の出迎え、飛行場の中へ入る許可を特別にもらって、通関がスムーズに行くように。車はいつも陰に1台空の車を走らせといて、何か事故があったらそれにくっ付けるとか、お腹が減ったといったら、すぐおむすびができるように、奥さん方に待機してもらうとかいう大変な努力して、副社長のスケジュールをやるわけです。社長までは来ないんです、なかなか。そうすると副社長は、なかなかインドもやるね、という格好で帰るわけですけれども、そのあと万骨枯るで、引っ繰り返る駐在員とか引っ繰り返る駐在員の奥さんとかいっぱい出てくるわけです。

そういうことをしないためには何かしなきゃいけないということで、インディラ・ガンジーは、最新技術を導入すればインドもよくなるんじゃないか。ゴルバチョフは国の再編成、見直しをすればということを考え、鄧小平は外国の技術だけじゃなくて、その背景にある文化を知らないと、外国の要求を満たすような輸出製品はできないよと。それには外国文化を学習しなきゃいかんよということをやったわけです。

その結果、ソ連は見事に崩壊してロシアになっちゃったわけですね。見直したら、やっぱりソ連というシステムはよくなかったとわかったんでしょうね。その結果そうなっちゃった。

鄧小平の言う外国文化の学習というのはどういうことか。年をとってきますと、文化の学習というのは、映画を観たり本を読んだり情報誌を見たりして、ああ、これが外国の文化というものか、ということになるわけですけれども、若者達にとっては学習ということはキャリアウトなんですね。実際ディスコで踊って民主主義の投票をやってということで、天安門まで走っちゃった。

唯一インドだけが近代最新技術の導入ということで、インディラ・ガンジーが生きている間はできませんでしたけれども、1991年に門戸開放いたしまして、それまで自立、自給自足、セルフリライアンスということを言っていましたマハトマ・ガンジーの思想から180度転換しまして、国際相互依存、インターディペンデンスというふうに180度国の政策の転換をやったんです。
それが三大社会主義国の背景にあるということを、まず頭に入れていただきたいというふうに考えます。

インドのIT

アメリカのカーネギー・メロン・ユニバーシティというのは、すでに皆さんご存じだと思いますが、そこに私の名前、SEI――Software Engineering Instituteという機関がございます。アメリカの国防省が金を出してそのインスティテュートをカーネギー・メロン・ユニバーシティの中につくるんですが、ここでやっていることは、世界のソフトウエア開発会社のランキングをやっているんです。

いろんな会社が申請して、ランクがレベル1からレベル5までありまして、レベル5がいちばん高いんです。米国の国防関係組織がのソフトウエアを発注する際に、関連企業あるいは国防関係の工場が、どの企業にどのへんのソフトウエアを頼んだらいいかというのをわかるために、1、2、3、4、5というレベル5まである。2002年の4月現在ですけれども、世界全体で69社、レベル5にランクされています。そのうちの約7割がインドの会社です。アメリカの会社よりもインドの会社のほうが多いんですよ、そこに出ているのが。

これが2004年、去年の5月の数字だと、75社がインドの会社なんです。中国の会社が1社入っています。日本の会社はどこも入っていません。差し支えがあったらごめんなさい。大きな顔をしている東芝だとか富士通だとかNECだとか何とかかんとかというのは全部入っていません。どこで入っているかというと、去年の暮れ私、インターネットでいろいろ調べてみたんですが、レベル3の会社が散見される。その中の一つが日立さんであり、オムロンさんなんですね。

森首相の時に日本のコンピュータ会社が、総理がコンピュータについてなんだかんだ言うから、一生懸命やらなきゃいかんということで、アメリカのコンサルタント会社にある日本の大手さんが、自分の会社どのへんのレベルにあるか診断してくれと頼んだ。
そうしたらその会社が来て、膨大な金と時間をかけてだと思いますけれども、調査して判定した結果、「おたくのはレベル2だ」といわれたんですね。日本のその大手会社はレベル2じゃ、総理の意向にかなわず言っているあれで大変だからといって、これをレベル3に引き上げるにはどのくらい時間がかかるかと聞いたら、そのコンサルタント会社は、「私が引き受ければ48ヵ月でやりましょう」と。4年ですよ。レベル2から3に上げるのに。それでその会社は慌てて、インドのコンサルタント会社に頼んだ。そうしたら「私だったら1年半くらいでワンランク上げることは可能ですよ」という返答があった。その後、その会社はどうなったか知りませんけれども、とにかく日本のコンピュータのソフトウエア開発は、世界の中でも相当遅れています。レベル5なんて行ってないんですね。レベル5というのは、定義を見ればわかりますけれども、要するに問題点の指摘をしてソリューションができる会社なんです。

日本の大手の会社も、インドのソフトウエア技術開発能力に関して、注目は始めています。それで向うに支店だとか学校だとか、組織をつくってやっている会社も出てきていますが、まだまだアメリカなんかと違うんですね。

アメリカのNASAの職員の30%以上が、インド系の職員だといわれています。IBM、マイクロソフト、みんなそうです。だいたい2割から3割くらいがインド人です。だからアメリカのIT産業はインド人なしでは、もう動かなくなってきているんです。

その証拠があります。実は1974年にインドは核実験をしました。その時の核実験装置は、日本の小学校の教室くらいの大きな装置だったといわれています。それが、1998年の5月にインドは核実験をまたやりまた。その時はミサイルの弾頭に付くようなコンパクトな核の実験をやったというふうに言われています。

ここのところで、ちょっと関係ないことかもしれませんが、日本にはすごく記憶力のいい橋本総理という方がその当時、総理大臣をやっておりまして、インドが核実験をやりました。途端にその日のうちに彼は、中国が核実験をやった時の例をちゃんと覚えておりまして、非常に記憶力のいい方ですから、あの時、無償援助を停止したということを明確に覚えていて、すぐその日のうちに「インドに対する無償援助は中止」というふうに言ったんですね。

その時、日本の外交官も世界のマスコミも、大ボケをやっちゃったんです。インドが核実験をやったと発表した時に、誰も「これで終わりですか」ということを聞かなかった。誰一人聞かなかったんです。インドは予定どおり粛々と二日後にもう1回実験をやった。橋本さん1回目やった時に、「無償援助停止」といっちゃったんですね。二日後にまたやられたら、「円クレ停止」といわざるを得ない羽目になっちゃった。

そのあとすぐG7があって、橋本さんが「サンクション」という言葉をG7で言ったら、ほかのG6ヵ国から笑われたんです。それで橋本さんが言った「サンクション」という言葉だけが独り歩きして、橋本総理のインドでの評判はガタ落ちになりました。
本当は橋本さん総理大臣らしく、やったすぐ「無償停止」じゃなくて、1週間くらい考えた振りをして、2回目が終わったあとに「無償停止」といえばよかったんですが、あまりに記憶力がよすぎたんでしょうね。言っちゃった。最近はどうも記憶力が落ちているみたいですけれども、そんなことがあったりしました。

で、アメリカがインドの核実験をやったあとの対応がすごいんですよ。タルボットという長官が、そのあとでインドの外務大臣になったジャスワント・シンという男と、1年半にわたって8回会談をしているんです。1998年の5月から1年半かけて8回。ほぼ2ヵ月に1回の割合で、本当に真剣に世界情勢、世界の核の問題、あらゆる問題について、アメリカとインドは話合うんですね。その結果、両者一応認め合うような格好になって、それ以降、アメリカは国際外交の場で、インドを無視してはできないところまで行ったんです。

なぜそうなったかというと、タルボット長官も、いまのアメリカ人の政府筋も、インドがNASAをはじめとするコンピュータ産業にものすごく深く食い込んでいて、ちょうどアメリカの金融界がユダヤ人なしでは動かないと同じように、アメリカのコンピュータ業界はインド人なしには動かない状況になってきちゃっているんです。いまアメリカにいるインド人の数は、150万人とも300万人とも言われています。300万人を超えているという議論もあります。

実はインドから海外に行っているインド人の数、どのくらいいるかといいますと、2000万人いるそうです。世界110ヵ国にインド人は行っているそうです。そのうちアメリカが150万から300万いる。
アメリカに行っているインド人は三つに分けられます。一つは、アメリカで勉強してコンピュータ以外の部門、物理学もありましょうし、特に医学、要するにドクターの称号を取るのは、アメリカではいまインド人の比率がいちばん高いそうです。アメリカ人も入れてですよ。そのくらいインド人はアメリカで勉強しているんです。英語を勉強するためにアメリカへ行こうなんていう不届きな日本人とぜんぜん違うんですよ。

インドのカレッジでは共通試験があります。全部序列がつきます。点数がつきます。そのカレッジ卒業の成績と、カレッジの校長の推薦状があると、アメリカの大学は彼が行く前から、ボストンだったりマサチューセッツ、カリフォルニア、ロサンゼルス、そういうところの大学が、あなたの奨学金は3000ドルです、5000ドルですと、前もって大学がコミットしてくれるんです。だからインド人は国を離れる前に、自分がアメリカの大学へ行った場合、奨学金を幾らもらえるかわかっていてアメリカへ留学するんです。それで一心不乱に勉強するんですよ。

要するにパチンコをやったり、ディスコへ行ったり、そんな遊びの精神なんかまったく歯牙にもかけないで、そういう低級な楽しみにインド人は興味を示さないんです。知的なものに異常な関心を持つんですね。

アレキサンダー大王とインド

話は飛びますが、知的なものにインド人は関心を持つというのに、西洋人でいちばん感心したのはアレキサンダー大王なんです。いまアレキサンダー大王、200億かけた映画をやっていますけれども、アレキサンダー大王がマケドニアからインドのほうへと来るわけです。最初、出始め、何人だか知りません。5000人か1万人の軍隊か知りませんが、マケドニアからずうっとインドのあたりまでは、完全に不毛とは言いませんが、だいたいちょっと小高いところへ上がれば、一望千里で向うが見えるんですよね。

あの当時はみんな都市国家ですから、先を見ると煙が何本上がっているから、だいたい人はこのくらいしかいないだろうというようなところで、ずうっと行くと、そこの都市国家の王様は、攻められて滅ぼされちゃ大変だということで恭順の意を表して、自分の娘といって娘をアレキサンダー大王に捧げて、この国は大王の名前をいただいてシカンドラバードにしますとか、シカンドラにしますとか、アレキサンドリアにしますとか、国の名前を全部変えちゃうんです。それで恭順の意をあらわして、ワーッといってアレキサンダー大王は1週間か一月そこへ滞在するわけです。捧げた女は、まあ今日は女性がいませんから、そういう言葉を使っちゃいますけれども、自分の娘と称する奴隷の娘かもしれないのを、アレキサンダー大王にやるわけですな。

アレキサンダー大王はそういうふうにやりながら、だんだん軍隊が増えていって、インダス川のほとりまでくるんです。インダス川のほとりまで来て、びっくりするんです。陰がある。ヒルがいる。樹の陰にはどんな動物がいるかわからない。一望千里不毛のところからジャングルのところへ来て、気味悪くて入れないんですね。谷崎潤一郎じゃないけれども、陰のある世界というのは、あんまり歓迎できなかったんでしょうね。
それでインダス川のほとりで、インドの七つの国から7人の王を集めて、「インドの地はインドの王達に任す」といって、彼は帰ることにするんです。帰る時に、陸路を帰ると便利なんですよね。その当時、軍隊が最終的に何万人になったか、何十万人になったか知りませんが、ぞろぞろ帰ればマケドニアに帰れるはずなんですが、ずうっと征服した都市国家があるわけです。来る時は1週間か一月でよかったけれども、そこにお妃がいるわけですよ、1ヵ所1ヵ所に。帰りに寄って2年3年といったら、一生かかってもマケドニアへ帰れないということもあっただろうと思う。それで海路帰ることになる。

海路帰ることになりますと、船に乗るのは人数限られますから、全部帰れないです、何十万なんて。せいぜい数千人か数万人。数万人、船で帰るって大変ですよね。そうするとインドに住み着いちゃった人がいるんですね。

しかもアレキサンダー大王はそこでびっくりしたのは、自分は戦って征服するということしか考えてなかった。ところがインドへ来て、インドの王達と話をして、いろいろインドのことを聞いてみると、インドでは宇宙と人間の関係を考えているという人達がいる。ヒンドゥ教の僧侶達にびっくりしたんです。宇宙の本質と自我とを合一させる梵我一如なんていう思想をやっているやつがいる、とびっくりしちゃった。そういう知的なことは考えたことがなかった。それでインドの坊主を7人だか10人連れて帰るんです。その分、船は人数が乗れなくなるんです。そうすると残っちゃう人たちが出てくる。

それでインドにはいまだに、その当時残った人が住み着いちゃって、ヒンドゥ教徒に改信して、インドに住んでいる人達がいるんです。マンガロールという港がボンベイのずっと南のほう、ケララに近いところにございますが、そこから数百キロ山奥側に入ったところにクールグという地域がございまして、そこに住んでいる人はクールギというんですが、これが「おれ達はアレキサンダー大王の末裔である」ということで、いまでも住んでいる。ヒンドゥ教徒です。顔はギリシャ人みたいな顔をしています。彼らはマケドニアからずうっと来て、牛肉を食べる習慣がずっとありましたから、いまだに牛肉を食べてます。
したがってヒンドゥ教徒は牛を食わない。インド人は牛を食わないなんていうのはとんでもないことで、インドではキリスト教徒、回教徒、これは牛を堂々と食います。ヒンドゥ教徒の中にも、牛を食う人達もいます。だから安易にインド人は牛を食わないということを信じちゃいけないなというような気がします。

アレキサンダー大王がすごく感心したのは、知的なこと、宇宙の本質と自我とを合一させることによって、なんていうことを考える人がいるというのにびっくりした。インド人はその当時から、そういう知的なことが非常に得意だったんですね。

それがゼロの発見にもつながりますし、それから中国人みたいに時間の流れというものを書いてというのじゃなくて、時間というものは本質的なものじゃないというようことで、インドでは時間というのは不変でずうっと流れていくのだから、これをあまり重きを置いてもしようがないということで、クロノジカルに時間を述べた歴史的な書物がないんです。これが中国とインドのものすごい大きな違いです。

中国の場合は、何年の何月何日に誰が何をしたということを、歴史を全部書いて残しておくんですね。国書というのができて、代々の皇帝がそういう専門家をつくって残しておくんですが、インドではそういうことはないんですね。要するに宇宙の本質と自分とをどうのこうのというような考え方のほうに行ったのがインドで、同じ四大文明の発祥国あれで
もずいぶん違うなというような気がします。
先ほどのちょっと横のほうの話の続きですけれども、クールグに住んでいるクールギという人達は、いまだにインドの軍人だとか銀行家の中にたくさんいます。非常に信用がある人達です。彼らはいまだにアレキサンダー大王の末裔であるということを誇りに思っていますが、私に言わせれば、「アレキサンダー大王は帰ったんだ。その重要な家来達、親戚も一緒に船で帰った。その下の部下の主だったのも帰っただろう。譜代はみんな帰っている。外様あるいはその家来の家来の召使くらいの末裔が、いま残っているおまえだろう」と、こうインド人に嫌味を言うんですけれども、そういう人達もインドに住んでいます。

インドの多様性と周辺への影響

だからインドというのは、そういうふうに非常にバラエティがあります。先ほどもちょっと言いましたけれども、ユダヤ教の人達がいまだに住んでいるんです。それも新しく入ってきた人達じゃないんです。ずうっと昔に流れ流れてインドに着いた人達が残っているんですね。

そういう意味では日本なんかもインドの影響を受けているんですよ。いちばん受けているのがはっきりしているのは桃太郎の話です。桃太郎というのは、岡山県出身の人がいたら怒るかもしれませんけれども、あれはラーマーヤナの焼きなおしなんです。インドでは困ったことに、地名、どこで何が起こったかという、「どこ」はわかっているんです。だけど「いつ」というのがわかってない。ラーマ王子が生まれた場所もわかっている。どこで猿と一緒になったかというのもわかっている。鬼が島がどこだというのもわかっている。鬼が島はセイロン島なんですね。セイロン島へとラーマ王子と猿が攻め入って、悪魔を滅ぼすんです。

その話をしても1時間くらい必要になるから簡単に言いますが、その時に猿がラーマ王子と一緒になって攻め入って、焼いちゃうんですね。終わったあと猿がこう顔をやったら、猿の顔が黒くなったということで、黒い顔をした猿というのは神のお使いであると、インドでは非常に珍重されているんです。日本猿みたいに赤いやつはたいしたことはないんだけれども、ハヌマーンという黒いやつが非常に崇拝されたりしているんですが、それがセイロン島、鬼が島、そのあたりからずうっと流れ流れて、フィリピン諸島あたりまでインド人は進出しているんですね。タミルナドのいまのマドラス中心の人達が、シュリランカだとかシンガポール、マレーシアにいっぱい進出していると同じように、昔から海岸伝いで、あっちのほうの諸島に行っている。それが台風かなんかで紀伊半島などに流れ着いた人達が、先祖の話として、要するに「昔むかし、あるところに」というような格好で桃太郎が日本へとくっ付いたというようなのが、真相じゃなかろうかなと私は思います。

さらにこれは日本史のほうで、僕らはわりあい知らないんですが、高校のさっきの45分間の歴史の中で、やればいいのに教えてくれないんですけれども、聖武天皇が大きな大仏をつくって、私はいま国分寺に住んでいますが、全国に国分寺をつくりまして、大仏の開眼供養をやろうと思ったら、日本に大仏の開眼供養というか、入魂式を仕切ることができるようなMC、Master of Ceremonyがいなかったんです。それで聖武天皇しようがないから、「中国から誰か偉い坊主呼んで来い」といって、中国へ坊主を呼びにやらせるんです。
中国へ行きますと、「なに、倭の国?倭の国の儀式、MC。そんなのはご免だよ。そんなところへ行ったってしようがないよ」というんで、中国の坊主誰も興味示さないんですよ。そこのところへインド人の仏教の坊主がいるんですな。これ、坊主の名前すら残ってないんですよ。菩提僊那というんですよ。要するに仏教徒ということしか残ってない。そのインド人を、その当時誰だか知らないけど、日本人がそれを日本へ連れ帰って、大仏の開眼供養をやるんです。

めでたく大仏は入魂式を終わりまして、全国の国分寺も威信が置かれるようになって、開眼供養をやったインドの菩提僊那というのは、中国へ帰っても、また中国の坊主の足洗ったり飯つくったり、そんなのやるよりも、こうやって厚遇してくれる日本にいたほうがいいなということで、日本へ住み着いちゃうんですな。この人が奈良五山の梵学の祖なんです。この人がサンスクリットを日本へ教えるんですよ。それの教えが脈々脈々と続いて明治まで来るんです。

アイウエオの採用

で、明治時代に日本の当時の偉いさんが西洋へ行って、法律だとかなんとかいろんなことを勉強してきます。その中で、西洋の言葉にはグラマーというものがある。日本もグラマーをつくらなきゃいかんだろうということで、日本文法をつくろうと。その基になるのは音韻表じゃなかろうか。英語のアルファベットを入れてもどうもうまくいかん。いろは四十八じゃ、ちょっとこれは……、ということで思いついたのが五十音なんです。

私、外語のインド語に入りまして、ヒンディ語の授業でいちばん最初にびっくりした。土井教授というとんでもないできる教授がいまして、いちばん最初、黒板に梵字を書くわけです。僕に言わせれば梵字ですね。ヒンディ文字を。「これは、ア・アー、イ・イー、ウ・ウー、エ・アイ、オ・オゥ」というふうに読むと。1時間目それだけなんです。次の週は、それでいきなり読めというんですよ。要するに自分で勉強しろ。

何のことはない。ヒンディ語というのは、アイウエオ順なんです。いや、そうじゃないんです。日本のアイウエオというのは、サンスクリット、ヒンディをそのまま写したものなんです。アの次にアーという長母音は来ますけれども、長母音を抜かすとアイウエオなんです。アのあとにもう一つ母音。日本では母音として認められませんが、サンスクリットの「リ」というのが母音としてインド語にはありますが、これを抜かしますと、アイウエオの次に来るのはカキクケコなんです。インド語の辞書がですよ。カキクケコのあとに来るのは、やはり向こうは音韻学が進んでいますから、同じ系列のガギグゲゴが来るんです。これは嘘じゃないんですよ。アイウエオって、そのままインド語なんです。
これが日本人は、五十音は日本の発明だと大勘違いをしているんですね。そうじゃないんです。インド語から持ってきた。しかもそれは大仏開眼をやった菩提僊那という男に端を発した梵学が影響を与えて、明治維新に五十音となって、こうなっている。

インドというのはそういうものを日本に与えているんですよ。仏教だけじゃないんです。仏教だけじゃないというのは、差し支えがあったらごめんなさい。神道で祝詞というのがありますが、祝詞をあげる時に神主が最初、何と言います?地鎮祭でも何でもいいですわ。「オウーム」というんです。オウム真理教のオウムです。これは神を呼び出すヒンドゥの儀式の最初の音なんです。

日本の当時の神道は、神に呼び掛ける音がなかった。どうしていいかわからない。お辞儀をして拍手だけじゃどうも頼りない。何か祝詞の前に一声掛けたいなということで、その当時バラモン教の「オウム」というのが入ってきて、これは便利だ。神を呼び出す音があるじゃないかということで、いまだにこれを神道の祝詞の前に使っているんです。これを神主さんの前で言うと、すごく神主さん困った顔をします。神道は日本古来のものだと思っていますから。そうじゃない。そういうものを日本は輸入しているんですよ。

これはしようがないんです。日本列島というのはアジアにくっ付いていますよね。日本で明石原人なんていたかいないか知りませんけど、それがいまのわれわれにつながっているかどうか知りませんが、いまの定説では、アフリカで人類が生まれて、ずうっとシナイ半島あたりで左右に分かれて、流れ流れて日本に来ている。どう見たって向こうのものがこっちに来たに違いない。こっちのものは向こうに行ってないです。

人類の流れ

おかしなもので、実は人類の流れに沿って、文化とかそういうものが流れやすい傾向があるんですね。ちょうどシナイ半島で生まれたキリスト教は左のほうへ行って、回教はこっちのほうへ来て、それに基づいて文化が流れてくる。だからこういう流れがあるから、それに乗った仏教というのは、こっちに流れるだけで遡らなかった。

ここでもう一つ、ちょっとよけいなことを言いますが、シナイ半島へと上がってきた最初の人類、あそこで夫婦喧嘩するんですな、為政者が。女が東のほうへ行って、男が西のほうへ行くんです。その女というのは呪術的な能力を持った女で、その当時まだ生きていた恐竜に乗っていたんですな。男は「あんな女の顔も見たくない」といって、西洋のほうへ行っちゃった。その時に、あんな悪女、悪魔ということで、女のことをデビルと呼んだんですよね。
だけれども、女を奉じた東のほうへ行った人達は、「いや、女神様だ」と、こう言ったわけです。だから英語のデビル、悪魔というのは、デビ夫人のデビ、女神と裏表になっているんですよ。同じ女の名前が、デビというんだったかデビルというんだか知りませんけれども、男から見れば、あれは悪女だとなるし、悪魔だとなるけれども、女神を奉じたほうは神様になるわけですな。
それで西洋では女神、悪魔、悪女、要するに悪魔をやっつけるためには、魔女をやっつけるためには、その使いであるドラゴン退治をしなきゃいかんということになっているんですね。だからドラゴンは、西洋では悪魔の使いになっている。
ところが東洋では女神に仕えた動物ですから、ドラゴンは神格化されて良いいい動物なんですね。このへんが西と東の考え方のすごい違うところで、中国でも日本でもインドでも、ドラゴンは神格化されているんですね。西洋では退治すべき対象物として扱われている。このへんはすごく面白いなと思う。

三菱商事にいてインドにいますと、夜、何にもやることないんですね。そうするとみんなでくだらん話、こういう話をしながら時間を過ごさざるを得なかったというのがあって、こんなことが頭の中に妄想として浮かんできて、これは定説でもなんでもありません。私の妄想です。だけど考えてみれば正しそうだなという感じはしますよね。

東から西へ流れたものは、重要なものが幾つかあります。例えば小麦の殻を取る手法。これは中国で開発された手法ですが、西洋にも流れて、すごく珍重されましたし、火薬がそうです。紙がそうです。羅針盤がそうです。チェスがそうです。こんなのみんなインド、中国で生まれたものが、西のほうへ行ったものです。こういうものは非常に数が限られていて、だいたいは西のほうから東に流れるという格好で動いてきています。

現職のアメリカ大統領の訪印

また話を元へ戻しますが、タルボットが8回にわたってインドのジャスワント・シンと話合った結果、クリントンが辞める前にインドを訪問するんです。クリントンはインドに五日間滞在するんです。アメリカからの距離を考えますと、実は七日かけているんですね、行き帰りもかかりますから。現職のアメリカ大統領が一つのほかの国に五日間滞在した例というのはほとんどございません。

なぜクリントンがそうまでしなきゃならなかったかというと、これが先ほど言いましたアメリカのIT産業、情報産業、コンピュータ産業は、インドなしでは成り立たない状況まで追い込まれているというひとつのエビデンスですね。

韓国の読み

日本の政治家はなかなかそこまで読み取っていませんで、その点、韓国の大統領、韓国政府は、インドとアメリカの関係というのはそこまでいっているんだから、21世紀はインドとアメリカの蜜月、ハネムーンとなる。そういうインドを前もって自分達はやらにゃいかんということで国を挙げて、政府が韓国系財閥の尻を引っぱたいて、インドに進出させています。

韓国の四大財閥、金星だとか現代だと大宇だとか三星だとか、みんな出てきました。大宇はちょっと本国のほうでだめになっちゃいましたけれども、相変わらずこの三つの財閥は、インドで隆々たるものです。最近は韓国の大統領がインドを訪問しまして、その時に付いていった韓国の人達というのは、200人以上いたというんです、実業家が。小泉さんが出かける時、日本の経済界、何人が随行者として付いていくかというのはわかりませんけれども、そんなことはないと思いますね。ロッテなんかもその時に行っております。
ロッテなんかすごいです。次はインドだと。ガムとインドってあんまり関係ないのかなと思うかもしれませんが、インドではパーンという、キンマの葉にいろんなものを包んで噛む習慣があるんですね。これをペッペッと捨てるのは汚いからということで、だんだん禁止のほうへいっているんですが、噛む習慣は残るだろうということで、ガムが非常に有望だということで、まず韓国のロッテが進出し、日本のロッテもいま北のほうへ進出しようと思っています。

インドで何かをやる場合に、金星なんかもそうですし、三星もそうですし、現代もそうですが、本社が本気になって力を入れてやっているんですよ。そうしないとインドでは成功しません。インドで失敗例としてあげるには、ちょっとまだ時期が早いんじゃないかなと思いますけれども、ウーン、ちょっと……と思うのはソニーの出方なんですが、腰掛的に出て行っているんですね。

ところがスズキ自動車の出方はそうじゃないんです。社運をかけて出て行っているんです。これはインドのマルチウドヨグという会社の会長が、その当時は社長だったですが、日本の晴海へ来て自動車ショーを見た時に、「三菱自動車に決めようかな」と、ある日言ったんですね。

ところが翌日、朝10時から夕方4時まで、鈴木修さんが帝国ホテルへ乗り込んで、ひざ詰めで一日かけてクリシュナムルティさんと修さんが話合って、すべてのペンディング事項を二人でさばいて、スズキがインドへ進出することに決めたんです。これはインドが門戸開放する1991年よりも5~6年遡った時です。スズキは全社一丸となって、このインドプロジェクトに進めるんむんですね。それで大成功をおさめるんです。

インドではその当時、アンバサダーという車とフィアットという車がありまして、細々とつくっていましたが、桁が違うんですね。一時は90%くらいスズキ自動車がシェアをとってやっていました。いまはスズキ自動車、マルチウドヨグのシェアは、乗用車で約6割くらいになってしまいましたが、それでも一つの工場で乗用車を50万台つくっているんです。一つの自動車工場で50万台乗用車をつくる工場が、世界中に幾つありますか。ほかにないと思いますね、まだ。生産能力は50万台あるというのはあるかもしれませんが、実際つくった例というのは、私、聞いたことがないんです。だいたい自動車というのは10万~20万台前後を一つの塊としてやっていますが、いまスズキは一つの工場で50万台つくっています。

インドの自動車生産台数は今年度、インドも暦年じゃなくて、財政年度は日本と同じで04―05で110万台くらいになりそうです。2010年には200万台だろうと。あそこに旭硝子が、アサヒ・インディア・セーフティガラスという工場をつくっておりますが、ここが自動車ガラスのインドの需要の9割5分くらいサプライしています。

一昨年の話ですが、そこに行っていろいろ話をしていたんですけれども、そこの方が曰く、2030年にインドの乗用車生産台数は1000万台を超えるというんですよ。なぜそれがアサヒ・インディア・セーフティガラスに予測できるかというと、95%のシェアを占めている自動車ガラス会社に対して、自分の生産計画を理解していただいてサプライしてもらわないと、自動車会社はどこもやっていけないわけですよ。

そうするとすべての乗用車が、ベンツも現代も、タタもマルチも全部自分の生産計画を、10年先の計画を、20年先の計画を旭硝子に持ってくるんです。お宅でサプライして下さいとお願いせざるを得ない。だからすべての自動車会社の本当のデータが、インド・アサヒ・セーフティガラスに集まっちゃっているんです。インドにもインド自動車工業会、AIAMというものがございますが、そこに出てくる数字は非常に政治的な数字が多いんですけれども、自分の生産計画に合わせた数字というのは、旭硝子さんが全部持っているんです。当然のことながら、旭硝子さん、儲かって儲かってしようがないです。95%のマーケットを持っていたら、儲からないはずがないですよね。

マルチウドヨグ、スズキさんも、鈴木修さんが「スズキの世界戦略は」なんて大きな話ができるのは、インドで儲かっているからなんですね。すごい儲かっている。この蓄積というのは大変なものですね。だからパキスタンでどういうふうにしよう。東欧でどういうふうにしようなんていうことを修さんが言えるようになったのは、インドで大成功をおさめたからなんです。これは社運を賭ける覚悟で進出したからにほかならないと思うんですよ。
片手間でインドでやると、インドという地は非常に商売的にも厳しいし、インド人も商売が非常に上手ですから、なかなか成功しない。やっぱりきちっと社運を賭けるような形でがっぷり四つに組んでいただかないと、うまくいかないような気がします。

先ほどちょっとお話しましたが、いま私は三井金属さんのアドバイザーをやっておりまして、これはもう新聞発表されてますから構わないと思いますが、三井金属さんがインドに新会社をつくって、そこで触媒をつくろうという計画をしております。

インドは核不拡散条約に加盟していません。インド人というのは原理原則を非常に大事にする人達です。だからすでに核を持っている5ヵ国だけが、言いたい放題のことを言えるような世界システムというのは、地球にとって好ましくないということをはっきり言っているわけです。アメリカに対し、核を持っている国に対し。で、自分も核を持っていますよということで、先ほど橋本さんが顰蹙を買うような結果をもたらした核実験をやったわけですよ。
エイズにかかっている人が、「自分はエイズにかかっているよ」というふうに言うほうが、私は正直だと思うんですよ。日本政府の立場は、エイズにかかっている。それはいいと。だけど黙っててくれよというのが日本政府の言い方で、核は持っていてもいいけれども、持ってない振りをしてくれよというのが、どうも日本政府の言い方のような気がしてしようがない。

原子力関係の方もここにいらっしゃるから、耳に逆らうかもしれませんけれども、インド人は私に言うんですよ。「日本人はアメリカの航空母艦や軍艦が日本へ寄港する時に、核をグァムだとかハワイへ行って下ろして入ってきていると本気で思ってるの?」と言うんですよ、インド人は。「だから持ち込まないというのは、とっくのとうに反故になってるんじゃないの?そういう日本人の建前論には自分達は付いていけないよ」とインド人は言います。

それから日本という国は、もしアメリカの核の傘の中に入っていなければ、歴史上から5年前、10年前あるいは20年前に消えていたかもしれないねという言い方を、本当に腹を割って話すことができるインド人は指摘します。反論のしようがないですね、これは。インド人のほうがきちっと日本を見てます。

インド人の対日感情

日本に対して批判的かというと、そうじゃない。日本の外交というのはすごいねと。自分の経済発展のために、国防費をアメリカにかじけてここまでやってきた日本人の知恵ってすごいねと感心するんですよ。インドの教科書では、日露戦争でアジアの国で初めてヨーロッパを負かした国が日本だということで、日本を褒めたたえているんです。

日本にも若干ではありますが、インドの留学生が来ています。日本にもインド人が何人かいます。日本に来た、日本で経験を持ったインド人で、日本を嫌いになったという例を私はまだ知りません。アジア、ほかの国から日本へ来ている留学生で、日本嫌いになって帰る留学生が3割とか、あるいは7割とか言う人がいます。そんなインド人一人もいません。みんな日本びいきになって帰って、本国へ帰ると熱く日本について語ります。こんな親日国はないと思います。インドで世論調査をしますと、外国でどこの国がいちばん好きかというと、日本はいつもトップです。こんな国ないんですよ。

インドの治安

インドでテロはたくさん起こります、小さなテロは。例えばオールドデリーなんかでは起こります。パキスタンとインドの間でカシミールというのがあって、これをああでもない、こうでもないとやっていますので、その関係でテロは起こりますが、外国人を対象にしたテロというのは一度も起こっていません。日本人がそういう不愉快な目にあったことは一度もございません。そういう意味では日本人が生活をするには、精神的にはすごく楽に生活のできるところですね。

相違点

ただし、風俗習慣がまったく違うんですね。まず食べ物がまったく合いません。私、言うんですけれども、世界は三つに分けられる。一つはタンパク質発酵調味料圏。これは日本からビルマまで。それからアルコール発酵文化圏。これはだいたいブドウ酒ができるところですね。その間、インドからギリシャのちょっと手前くらいまで、乳酸発酵文化圏。ミルクですね。調味料としてはスパイスなんです。
インドにはカレー以外ありません。私、学生時代に旅行した時に、サイクル力車というのがございまして、インド人というのはだいだい日本へ一方的にみんな与え続けたんですが、日本人がインドに与えた数少ないものの一つには人輪力車。日本で言う輪タクをサイクル力車というんですよ。人がこうやって引っ張る人輪力車ですね。これはカルカッタにいまでもあります。一時戦後はやった輪タクというのがありますが、これはインド各地にあります。
サイクル力車という輪タクの運転手と仲良くなって、学生時代に話をしたら、彼曰く。「おまえ、カレーを食うか」というから「食う」と。「日本ではどのくらいカレーを食うか」というんですね。「おれは一月に1回か2回は食うぞ。ひどい時は1週間に1回食うこともある」といったら、その力車が「気の毒だな。おれは少なくとも1週間3回は食う」というんですよ。何のことかなと思った。
そうしたらカレーというのはおかずという意味なんですね。だから日本人はおかずのある日が一月に二日か三日。おかずのある日が一日ある週もある。インドではいちばん下級の労働者は、豆の粉を水でこねて食べて、青い唐辛子をバリバリ、塩がちょっとあって、それが普通、いちばん下の人達ですね。カレーを、というのはおかずがあってご飯だとかチャパティだとか食べるというのは、大変なぜいたくなんです。そういう人達にとってみれば。僕はすごく同情されまして、カレーをおごってやろうかといわれましたよ。だからカレーという意味は、そういう人達にとっては日本で言うちょうどおかずに当たるかなという意味です。

そういう意味では、日本人が向こうへ行きますと、インド人にとってみれば全部がカレーですから、例えば1週間日本から交渉に行く。「じゃあ全部食事はおれのほうで面倒みる」といって、昼夜、昼夜呼ばれるわけですよ。彼らにしてみればおかずの種類を変えようということで、昼夜、昼夜違ったカレーを1週間出すんですよ。で、違ったおかずを出したというふうに彼らは思っている。

日本人にしてみれば、田舎の定食屋へ行くとカレーライス、ハヤシライス、ラーメンに天丼というふうに書いてあって、あのカレーなんですね、全部が。そうすると「なんだ、毎日カレーか」ということになる。

日本人は中国へ行った時に、例えば中国人と1週間いて全部二食、昼夜、昼夜と、今日は北京料理、今日は四川料理、今日は上海料理、広東料理、いろいろやってくれているなと。だけれども、言ってみればカテゴリーとしては全部中華料理なんですね。

それと同じように、インド人はカレー料理の中でいろいろ細部やっているわけです。インド人自身は感覚的に中華料理があり、フランス料理があり、インド料理がある。日本料理がある。そのくらいにインド料理というのは確立した文化だというふうに彼らは考えているわけです。

だから日本人は、「なんだ、また。行ってる間ずうっとカレーじゃないか」という不愉快な目をするけど、だけどよく考えてみれば、それはこっちの勘違いだということに気がつかなきゃいけないと思います。

ただし向こうで生活するには、気象状況だとか食べ物も含めて瘴癘の地といわれる地ですから、非常に生活しにくいところです。

日系進出企業は儲かっている

ただし、JETROで調査したものがございますけれども、あそこに進出している日本企業のうち、だいたい7割から8割くらいが黒字または儲かっているんです。中国の2割か3割しか儲かってないのに比べれば、大きな違いだと思います。現在向こうに進出している日本企業はだいたい200社。中国は2万社といいますから、100分の1ですよ。進出している企業は、黙っていますけれども、7割8割儲かっているんですよ。儲かっていないところも、あと1~2年すれば儲かるという確信を持っていますね。

現在の経済成長率はだいたい6%から7%の間くらいで伸びていっています。世界の歴史を見ますと、7%以上の経済成長率を無限に未来永劫続け得た国はありません。上昇すると、必ずストンがあるんですね。そういう意味ではなだらかな伸び、6%から7%の間くらで伸びていくというのは、非常に健康的でいいんじゃないかなというような気がします。この間の東南アジアの通貨危機の時も、インドは微動だにしませんでした。まったく大丈夫でした。

インドの影響で、先ほど仏教の話だとかアイウエオの話をしましたけれども、もう一つ、ちょっと思いつかないものがあるんですが、ご披露しておきましょう。何かの話題になるかと思いますが、インドにはベーダというのがございまして、ヒンドゥ教の教えを説くひとつの聖典ですけれども、四大ベーダというのがありまして、リグ・ベーダというのは哲学的なこと。サーマ・ベーダというのは神に捧げる賛歌を集めてあるやった。そういうようなのがあるんですが、神に捧げる賛歌の歌い方、これがいまだにインドに残っているんですね。この神に捧げる賛歌というのが、結局、お経の読み方に影響を与えて、中国経由で日本に入ってくるんです。
お経の読み方だとか声明だとかいうのを元にして、室町時代に謡というものができたんです。だからお能というのが完全に日本発生のものだという勘違いをしないでいただきたい。インドで起こった神に捧げる賛歌の歌い方、腹式呼吸、腹から声が出るやり方は、インド発生なんです。それが脈々と流れて日本に声明として、お経として伝わり、それが室町時代に世阿弥によって謡という分野を確立して、いまに続いているんです。これは観世のお家元も認めていらっしゃることです。
実は観世のお家元のお手伝いをしばらくしたことがございますので、そのへんのことは家元とも何回も話し合っているんですけれども、そういうことで、意外にわれわれの身の回りにもインドの影響のものがあるんですね。
例えば言葉で言えば「卒塔婆」という言葉、それから地獄という意味で「奈落」という言葉。奈落というのは、いまでもインド語で地獄のことで使われております。日本では舞台用語として奈落の底だとか、ああいう意味での奈落。せり上げのあれのことを奈落といっておりますけれども、そういうように言葉の中でもたくさんあります。
例えば「さら」という言葉があります。さらというのは新しいという意味で日本は使いますけれども、ヤクザの方々が使うらしいんですが、インドではサラというのはやっぱり新しい、完全なというような意味なんですね。これは英語に入ってサラリーのサラと、ひょっとしたら同じじゃないか。そういう意味で同じものがずいぶんあります。

インド語というのはヨーロッパ語から分かれてきていますので、英語やなにかの兄弟だといわれていますからね。アーリア人というのはインド・アーリア語族といいますから、ヨーロッパのほうへ行ったのとインド側に来たのと両方いるんですけれども、ヨーロッパへ行ったほうの方々は、途中でキリスト教に影響を受けてキリスト教、一神教になっちゃうわけですね。それまではギリシャを中心としてわかるように多神教だったわけですけれども、ごまかされて一神教になっちゃった。インドに来たのは、いまだにヒンドゥ教という多神教なんです。

一神教の方々から見ると、多神教なんていうのは宗教じゃないと。神というのは一つなんだという考え方が強いんです。ご存じだと思いますけれども、中近東でうまくいかないのは、回教というのは非常にレトリックがうまかったんですな、モハメッドというのは。上手に説明したんですね。いままで神はモーゼを使わした。だめだった。キリストを使わした。だめだった。それで神はしようがなくて最後にモハメッドを預言者として地上に送った。だから回教がいちばん正しいんだと回教では言うわけです。これはどうしようもないですよ。あとからできたものが正しくなっちゃったんですね。すごい上手なレトリックですよね。モーゼがだめで、ユダヤ教。キリストがだめで、キリスト教。で、神は最後にモハメッドを使わしてできた回教、これがいちばん正しいんだということをモハメッドが言っちゃったんですね。それを信じているんだから、キリスト教と回教はうまくいくはずがないです。

ただ、これは全部共通しているのは一神教ということです。一神教を信じている英国人がインドに来て、「God is no where in India」といったんです。要するに、何でもかんでも、石ころまで神にするような国には神はいないというふう言ったわけです。そうしたらインド人が、「それはそのとおりだ。ただしおまえ、ちょっと綴りが間違っているよ」といって、no whereのwを前へくっ付けて「God is now here in India」と、こうインド人はやった。このインド人のユーモアというのは大変なもので、感心させられます。

日本とインドの共通点

インドと日本でもずいぶん違うところがあるんですけれども、共通点も幾つかある。共通点というのは、共通なことが起こっているということですね。似ているという意味じゃないんですよ。例えばインド人は働くことが好きなんです。日本人も当時は好きだった。ワーカホリックといわれていた頃、皆様が現役だった頃は、仕事が面白くて面白くてしようがなかった。面白い仕事の合間に麻雀やったりゴルフやったりするから面白かったのであって、暇を持て余した時ゴルフやっても麻雀やっても面白くないんですよね。仕事の面白さというのは、ものすごいものだと思うんですね。

要するに工場で一日仕事やって、5時になって家へ帰ってきて5時半。「今日、会社でなあ」というのをビール一杯飲みながら、あるいは焼酎でもいいんですわ。親父さんが女房あるいは子供を前にして会社の自慢話をする。それが日本人の生き甲斐だった時代があるわけですよ。
それを称して、要するに「労働は時間の切り売りである」なんていった西洋人が、日本人をワーカホリックといった。だけど仕事が面白かったら、それに超したことなかったわけじゃないですか。それを否定することはぜんぜんなかったわけですよ。

いまインド人はまさにそういう状況で、働くことが、金を儲けるというのが、面白くて面白くてしようがないんです。 カルカッタにインドで有名なマルワリの一人のミッタルという家族がありますが、これが小さな町工場の親父だったのが、いまや世界の鉄鋼王になったんですね。その会社1社で2000万トンつくっているんですよ、鉄鋼を。
しかも、この鉄鋼景気ですから濡れ手にアワ、言い値で売れる格好になっていますから、すごいですね。英国に豪邸を構えて、世界中に君臨していますよ。

こういう金儲けの仕方というのは、インド人はものすごく上手ですね。ロンドンのLME、要するに非鉄をやっているLondon Metal Exchangeの会長も、ミスター・バグリというインド人です。英国でサーをもらったインド人もたくさんいます。それからシリコンバレーに働いているインド人の数、数知れず。しかもそれのミドルマネジメント、いまや上層部あるいは社長になっている人は、枚挙にいとまがないくらいたくさんいます。
世界各国で政治家、代議士になっている異邦人の数というのは、インド人がいちばん多いそうですね。そういうふうにインド人は世界に進出しています。国連、ワールドバンク、インド人だらけです、上層部は。日本人は英語で太刀打ちできません。

インド人はものすごく自己主張が強く傲慢で、世界中で嫌われています。嫌われていますけれども、世銀やIMFや、WHOもそうですが、インド人なしでは動かなくなっちゃっているんですよ。ものすごいです。

アメリカ人が感心するのは、インド人のマネジメントというのは、採用したその日からマネジャーが仕事ができるというんですね。インド人には2種類あります。一人は命令を下す人。一人は命令を下される人。この2種類です。生まれた時から人を使う訓練ができているインド人達、これが上層階級になったり、あるいはアメリカへ行ったりしているんです。こういう人達は生まれた時から訓練を受けていますから、新しいオフィスへ行って、「今日からおまえはここのマネジャー」。「わかった」と、自分のジョブ・ディスクリプションをもらうと、それでもってその日から部下を使って仕事ができるんです。アメリカ人は感心しますね。日本人はだいたい半年から1年くらい様子を見ながら、少しずつ人に命令できるような格好になってきます。それに比べるとインド人を使ったほうが効率がいい。

そういう意味では中近東でも大活躍していますね。要するに中近東の人達の下でミドルマネジメントをやって、インド人は非常に優秀だと。インド人は目がいい。手先が器用。仕事が好き。こんないい人達いないじゃないですか。
だからインドに進出しているホンダだとかそういう方の経験談を聞きますと、中国人、インドネシア人は、後ろ向くと何をやっているかわからないけど、インド人は1週間留守にしても、ちゃんとマニュアルどおり仕事をやってくれているということなんです。

木に竹を接ぐ

先ほどインドと日本の共通点、ワーカホリックが出てきているというのも一つですが、もう一つ最近気がついたのは、日本とインドは文化的にはものすごく違うんですが、木に竹を接ぐことができた人達。要するに日本は明治維新、幕政から天皇親政になり、終戦を迎えて天皇制からマッカーサー制になり、自民党から村山政権になり、村山さんからさらに橋本さん、ずうっとこう来て、ずうっと木に竹を接いできたんですが、一日たりとも、イラクで起こっているようにマーケットが封鎖されたり、水道が止まったりしたことがありますか。

インドも英国から独立し、コングレスが政権をとり、BJPになり、BJPからさらにまたコングレスになった。この間の選挙でBJPというところからコングレスに戻ったんですけれども、その時負けたほうのBJPの党首が言ったことがふるってますね。「BJPは選挙で負けたけれども、インドの民主主義が勝利した」と。一日も停電もありませんし、何にも起こらなかった。きちっと木に竹を接いでいままで来ている。

先ほど言いましたセルフリライアンスからインターディペンデンスに180度転換しても、ちゃんと軟着陸しているんですよ。混乱は起こってないです。これがインドと日本でできているんですね。

それを経験したアメリカがイラクで、アフガニスタンでやろうとしたって、うまくいくはずがない。普通の国では木に竹は接げないんですよね。それがインドと日本ではできているというところ、非常に面白いなと最近は思っています。

まだしゃべりたいことの百分の一もしゃべってないんですが、時間が来たのでやめます。どうもありがとうございました。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

北東インド・ナガランド州で出会った「納豆」、ライスビールetc. | ヤクランド
北東インド・ナガランド州で出会った「納豆」、ライスビールetc. | ヤクランド
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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

500倍以上高い濃度であることがわかりました。[23]

納豆の臭いはジアセチルピラジンに由来しますが、長時間発酵させるとアンモニアが放出されます。[24]

親戚を閉じる

納豆キネマトゥアナオトライアングル

アジアの多くの国でも中国shuǐdòuchǐ(水豆豉)、韓国cheonggukjang 청국장) 、インドネシアテンペタイトゥアナオถั่วเน่西ベンガルシッキムヒマラヤ地域メガラヤトゥアナオマニプールハワイジャールベカンウムミゾラムナガランドアクニアルナーチャルプラデーシュ州ピアクインド[3] [25]

ギャラリー

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

約 179,000 件 (0.44 秒)
SOSタイタニック/忘れえぬ夜
えすおーえすタイタニック/わすれえぬよる
1958年 ‧ ドラマ/ドラマ ‧ 2時間 3分
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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。


How to promote Japanese investment to India
And Changes happened these thirty years in India2000/1
At Banaras Hindu University
Y. Sei JICA, EXPERT

私のインドとの接触

私は東京外国語大学のヒンディー語学部の学生でした。私は1958年に大学に入学し、1964年に卒業しました。つまり、通常の学生が4年で卒業するのに対し、私が同じ大学を卒業するのに6年かかりました。
私は1962年にインドを訪れた3人の学生のうちの1人でした。その時、私の最初のステップはバナラシでも印刷されました。ヴァナラ大学のホステルに泊まりました。その時、私はインドを理解するのに最低20年は必要かもしれないと感じていました。
私は1964年に三菱商事に入社し、1967年にカルカッタに送られ、そこで家族と私は1974年まで滞在しました。私たちはナクサライトの時代と喜びの街の時代を経験しました。カルカッタでの7年間に、さらに2人の娘が3人になりました。
私の会社は私をニューデリーに2回送り、合計16年間を3回滞在させました。
私は今、インド政府から2年間の滞在を求められましたが、それまでの合計滞在期間は18年間でしたが、インドを理解するための計算ではまだ2年間不足しています。ですから、インドについての私の考えは完璧ではありませんが、この37年間にどのような変化が起こったかを指摘することができます。

私が観察した変化

私たちが1962年8月に海でカルカッタに到着したとき、そこの人々は最後のマンゴーを完全に楽しんでいました。多くのベンガル人は毎週エビのカレーを楽しんでいました。しかし、今ではアルフォンソのマンゴーとエビのカレーをとるのはどれほど難しいか。それらの製品のより大きな部分が輸出され、それらの製品の価格は日常の消費のために高くなりました。菓子屋は、誰が作っているのか、最初のフードレストランはないのかを示していました。多くの工場は、誰が食堂の料理人になれるのかということに注意を払っていました。今では誰がファーストフードレストランや食堂の厨房でコッキングしているのか気にしないので、人々は味と量を気にするでしょう。スイカの甘さは、1980年代後半に日本の2標本のハイブリッドによって増加しましたが、今では再び甘さが減少しました。リンゴは30年前はかなり高級な果物と見なされていましたが、今ではバナナと同じレベルと見なされる可能性があります。ニューデリーのフルーツショップでは、驚いたことに、輸入されたフルーツの種類が少なくありません。現在、大都市のいたるところに南部のスナックショップがあり、焼きそばは30年前には見られなかったインド料理の1つとして提供されています。インド人の食生活は大きく変わります。あなたの伝統的な食べ物も大きく変わりました。世界的に有名なタンドリチキンが変わりました。ダルが変わった。外に食べ物を持っていっても、人々は今では違和感を感じていません。現在、大都市のいたるところに南部のスナックショップがあり、焼きそばは30年前には見られなかったインド料理の1つとして提供されています。インド人の食生活は大きく変わります。あなたの伝統的な食べ物も大きく変わりました。世界的に有名なタンドリチキンが変わりました。ダルが変わった。外に食べ物を持っていっても、人々は今では違和感を感じていません。現在、大都市のいたるところに南部のスナックショップがあり、焼きそばは30年前には見られなかったインド料理の1つとして提供されています。インド人の食生活は大きく変わります。あなたの伝統的な食べ物も大きく変わりました。世界的に有名なタンドリチキンが変わりました。ダルが変わった。外に食べ物を持っていっても、人々は今では違和感を感じていません。

私が1967年にインドに来たとき、三菱商事のスタッフの何人かはオフィスでドウティにいました。カルカッタの人々の着付けの色は白、黒、カーキで、まったくカラフルではありませんでした。現在、多くの女性と女の子がTシャツとジーンズを着ています。30年前にカルカッタのビッグシネマハウスのドレスサークルにいなければならなかったシネマハウスのフォーマルシートにはディナージャケットは必要ありません。カルカッタに到着したとき、私は最初に1967年に白と黒のディナージャケットを注文するように仕立てました。それは古き良き夢でしたか?
カルカッタとボンベイで独立した家を借りるのはかなり難しいです。いわゆるフラットは、若いカップルが2、3人の子供と一緒に住んでいる大都市で人気が高まっています。(参考までに、政府のスローガンも「do tinbacchabas」から「hamdohamarado」に変更されました)。
食料、衣類、避難所は生活の最も基本的な必需品と考えられており、ここインドでは大きく変化しました。それはあなたのライフスタイルが大きく変わったことを意味します。
1960年に日本でインド経済について話し合ったとき、彼らはキャストシステム、管理機関、共同家族、そして英国のラジの影響について必ず言及しました。最近では、誰も共同家族、英語のラジ、管理機関を取り上げていません。

Marutiのおかげで、多くのオーナードライバーがインドにいます。ヒンドゥスタンモーターズの時代には、オーナードライバーはめったに観察されませんでした。1960年代、トヨタはインドにミッションを送り、ヒンドゥスタンモーターズで何が起こっているかを観察するための教育ツアーを行いました。当時、ヒンドゥスタンモーターズは自動車の製造において非常に進んでいました。インドでは100ccのバイクがいたるところに見られます。現在、ニューデリーは、自動車の排気ガスと3つのホイーアーと2つのウィーラーのために、冬の大気の最悪の3つにランクされています。
ボンベイとニューデリーでは多くのフライオーバーが行われています。PCは現在、日常生活やオフィスでの作業に通常の武器を手に入れています。多くの高層ビルが建てられました。都市の風景が変わりました。

変化のスピード

自動車用メガネを製造している朝日インドセーフティグラス株式会社を訪問し、インドのマネージングディレクター兼日本の代表者に会いました。インドMDによると、インドの自動車生産の総数は2030年に1,000万台を超えるとのことで、日本の代表者は「あなたの計算は正しくありません。2025年までに1,000万人が達成されるでしょう。」現在、自動車の生産量は100万台弱であり、25年または30年以内に、自動車の生産量は現在の生産量の10倍になります。自動車が10倍の場合、他のアイテムはどうなりますか。100回になるアイテムもあれば、同じアイテムもあります。多くのアイテムも途方もない数に増加します。

インドの市場は、ここで会社を作るために多くの起業家を引き付けるのに十分な大きさだと思います。しかし、日本のビジネスマンはインドに来ることにそれほど熱心ではありません。中国への投資は5〜1万件と言われていますが、インドへの投資は200〜300件に過ぎません。ですから、日本のインドへの投資を促進するという私の任務は深刻な問題になっています。ケースを中国やインドと比較する要素はたくさんあります。民主主義と共産主義、無法で多すぎる法律、政治家と官僚、日常生活の習慣と習慣、食べ物、言語などの郡のシステムは、多くの経験豊富な人々によって研究されてきましたが、明確な答えは得られませんでした。ある人は、2つの国の間に心理的な距離があると言います。私はまた、この答えに部分的に同意し、2つの間のギャップを短縮する方法は、政治家、外交官、官僚、ビジネスマン、観光客、学者、一般の人々など、あらゆるレベルの人々でお互いをよりよく知ることです。以上のことを踏まえ、本日は皆様にお会いし、ご意見をお聞かせください。
過去30年と今後30年は速度が大きく異なります。その準備ができている必要があります。それだけでは十分ではありません。変更を行う側に参加しましょう。変更を待つ側には参加しないでください。変更はあなた次第です。あなたの人々は変更を加えるでしょう、そしてそれらの変更は良いものでなければなりません。

インドはユニークな国

ですインドは世界でもユニークな国です。インドは多くの分野で画期的な歴史を築きました。それらのいくつかを指摘したいと思います。
インドは世界で唯一の例外的な大国であり、覇権を求めていませんでした。歴史は、すべての大国が自国をより大きくするために周辺国からの覇権を求めて戦うことを示しています。しかし、彼女はしませんでした。
軍は覇権を取りませんでした。インド軍やその他の軍隊は常に冷静であり、政治に関心を示すことはありませんでした。近隣諸国には多数のサンプルがありました。
いずれかの国が外国為替危機に直面したとき、彼ら全員がより厳しく管理するために行動を起こしました、しかしインドは外国為替管理を自由にするために変化を起こすために問題を解決しました。
政治が安定していない開発途上国では、経済成長は期待できないと言われています。インドは、政府が世話をしたときに最も高い経済成長の1つを達成しました。
上記で達成したインドの知恵は尊敬しています。私は、インドが今後何世紀にもわたって世界のリーダーになることを望んでいます。そのためには、いくつかの変更が必要です。私のインドの揚げ物の1つは、なぜインド人が世界のあらゆる場所で嫌われているのかを私に言いました。私はそのようなインド人がもっといることを望んでいます。

アジアで共通していることは1つだけです。つまり、私の大きな残念なことに、アジアから出ることです。この事実を指摘するのはとても悲しいことです。多くのヨーロッパ人が勉強する力を注いだアジアで一般的な何か他のものがあるかもしれません。 Dr.Anjo
Indo Japanese Business relations

2001/3/27

 インド各州はそれぞれ違った顔を持っている。言葉も違い、気候も違い、住んでる人も同じでなく、カレーも違うと言う。その違いを活かした産業政策を考える必要がある。
Indo-Japanese relations: The Emerging Trends
Jawaharlal Nehru University School of International Studies

FICCI Japanese Cell Expert
Y. SEI

日本では年の初めに『一年の計は元旦にあり』と言って、計画を立てたり、覚悟を表明したりする。又『国家百年の大計』ということも良く言われる。現在21世紀の冒頭に、インドの国家の100年の大計を考えることは、変化の速度が加速されている現状では、容易ではないが、必要な事であろう。変化の速度が捕らえにくいほど速いからといって変化に無為に身を任せる国はない。

 インドは1991年にそれまでの自給自足、自立を旨とする政策から国際相互依存へと180度国策を変えた。共産主義は誤りで、資本主義が是であると歴史が展開したとき、インドの社会主義的混合経済から自由経済への展開は見事な決断であり、歴史的に評価できるものと考える。

 しかしながら、インドの政策的な転換にも関わらず、それを政策に直接反映させるインド政府の役人一人一人が自覚を持って政策化を行っているかは疑問がある。伝統的な考え方を引きずる場合が多いのは当然である。

 インドの行った外貨歓迎政策については、インド資本と公平に競争すると言う意味で十分に承服できるものと考える。選別的に外貨を歓迎した国のしっぺ返しを考えると、公平に扱うインドの国是は歓迎できる。

 インドの役人が忘れている最大の問題点は、外国企業はインドで金儲けにくるということである。インドに来て金儲けをして下さいとの精神が忘れ去られている。外国企業がインドで金をもうけて送金する事が悪いことであるとの考え方を払拭する事が必要である。儲けた金を気持良く自由に持ちかえってくださいと言う一項目がぬけている。資本主義が共産主義に比して良いとの歴史的評価がなされている以上、資本主義的な考え方が正しいと言う見方が徹底していない。儲けのないところには外国資本は進出しない。インドは慈善事業に外国企業が進出するとは思っていない筈である。

 インドのソフトウエアが世界的に有名となっている。確かにインドのソフトウエア及びインド人IT技術者無しでは世界のITは不自由をきたすまでになってきている。そこで、インドの各州はITパークの建設に熱を上げている。インド中にITパークが建設されている。かの有名なバンガロールを始めとして主要な州のほとんどがITパークを建設したり、建設の名乗りをあげたりしている。しかし、カシミールにITパークを計画しても一体誰が進出するのだろうか。アッサム然り。パンジャブですら問題ありと言われる。誰もが思いつく計画をどこにでも作っても成功するとは限らない。後発がだんだん不利に成る事は必死であり、競争が激化する事も当然である。

インド日本ビジネス関係2001/3/26
日印関係:新たなトレンドジャワハルラルネルー大学国際学部FICCI日本のセルエキスパートY.SEI
現状
日本の対中投資額は5,000以上と言われています。一方、インドと同じは約200〜250です。なぜ日本人はインドに来ないのですか?
昨年行われたジェトロの調査によると、インドの日本企業の約75%が黒人であるのに対し、中国では25%しか利益を得ていません。この事実は、日本人が特定の市場に参入するために収益性が必要ではないことを示しています。
日本とインドの間には心理的な距離があります。日本人はインドの考え方やおもてなしに精通しておらず、インド人は日本のレトリックや沈黙に慣れていません。国際会議の議長の役割は、日本語を話せるようにする方法と、インドの話を止める方法であると言われています。食べ物も日本人にとって小さな問題ではないかもしれません。中華料理は受け入れられるか歓迎されますが、インド料理はそうではありません。インドのおもてなしは時々日本人を驚かせます。(山ノ内さんが作成したインドと日本の違いの比較リストを参照してください)
財政的裏付けに関しては、現在のようにいくつかの事例を除いて、インド企業と日本企業の間に新たな関係が確立されていないという事実に言及することは非常に残念です。ここインドには、インドのパートナーまたは100%日本の自己資本との金融合弁事業を行った、約200の日本の製造部門があります。パートナーシップを確立した人々は、彼らの伝統的なビジネス関係の延長線上にあります。貿易パートナーは、技術的確証パートナーおよび財務的確証パートナーになります。技術的確証は財務的確証になりました。新たにパートナーシップを組んだ企業はごくわずかです。
インドのフロートガラスは、タタ(ACCセメント)と旭硝子ジャパンの確証であり、両社の珍しい新しい結びつきの1つです。朝日はインド人のパートナーを探し、タタと握手をすることにした。トヨタの場合も新しいネクタイですが、トヨタとキロスカーの繊維機械との関係は無視できませんでした。ダイキンは最近、新しいものと見なすことができるSIELの間で合意しました。ダイキンはガールフレンドを探していて見つけました。これら3社はかなり前からインドを研究していました。
新しい合弁事業の他のケースは、より大きな家による特定の圧力またはガイドラインによって作られています。マルティの場合のように、彼らは日本の部品サプライヤーにいくつかのインド企業を紹介し、日本の部品メーカーはインドの経験がなくても合弁事業を行うことを決定しました。しかし、日本の一部の自動車部品メーカーは、インドのコンサルタントにパートナーを探すように依頼し、コンサルタントの調査結果によると、推奨される当事者と合意しました。それらは非常にまれなケースであり、その数は少なかった。
他のケースは、私が上で述べたように、伝統的な関係の拡張に関するものです。つまり、日本人はかなり保守的で、常に特定のビジネス分野の専門家であるパー​​ティーを結びたいと思っています。ですから、もしインドが新しいものに新たな冒険をしたいのなら、日本人を満足させることは非常に難しいでしょう。そのため、1991年にインドが外国人に門戸を開いたとき、一部のインド人は日本の貿易会社に、日本人が興味を示すことができるものを探すように頼みました。しかし、そのような場合はまったく楽しまない。
日本の投資を促進する方法
2030年までにインドの自動車生産総数は1000万台を超えると言われています。現在の生産台数は100万本弱です。自動車の数が10倍になると、他のアイテムはどうなりますか---ミネラルウォーターのボトルは1000倍、ビールは100倍、アイスクリームは200倍になります。はい、インド経済は必ず変化します。そのような場合、日本人の賢明で保守的なビジネスマンでさえ、彼らの態度を変えることは確実であり、インドに来るでしょう。
日本のビジネスマンだけでなく、他の外国人ビジネスマンも利益を上げる分野にやってくるでしょう。あなたの提案が有益であることを証明できれば、日本の産業は喜んでやってくるでしょう。それで、インドで利益を上げてくださいと言って外国人を招待する時が来ました。各州と中央政府は、利益を上げるためにインドに来るように外国企業に言うべきです。日本の投資を促進するためには、理論や手順を説明するよりも、成功事例を示す時期が来ています。そのために、州政府は、既存の合弁事業や日本企業からの問題や要求をできるだけ早く成功に導くために取り上げなければなりません。
インドは非常に大きな国であり、インドに関する一般的な情報は、日本企業がインドにお金を投資する場所を研究するのに役立ちません。各州の特定の情報は、日本で広まっている必要があります。そうでなければ、日本企業はインドのどこに行くかを決めることができません。
今や、各州がそれぞれの専門分野を外国にアピールする時が来ました。たとえば、カルナタカ州に養蚕業への関心に焦点を当てるよう提案し、アッサム州に国際きのこ研究所を設立して、21世紀のポジティブな食品および医療材料の1つと見なされているきのこへの世界的な関心を呼びかけました。カルナタカ州が養蚕のメッカになると、シルクに興味のあるすべてのディーラーやパーティーが集まり、お金も集まって投資の機会を探します。情報によると、カルナタカ州は養蚕業に適しており、日本人の何人かはすでに養蚕業と一緒に養蚕業を支援するためにそこにいます。カルナタカ州は、ITだけでなく養蚕も専門としていることを示すことができます。アッサム州はお茶と原油で人気があり、しかし、その熱帯の雨の気候は日本人には知られていません。学者によると、その気候はきのこ栽培に非常に適している可能性があります。したがって、アッサム州が世界規模できのこ研究所の設立を推進すれば、きのこに関する多くの学者がアッサムを訪問し、日本の耕運機が関心を示すでしょう。アッサムはきのこのメッカになる可能性があります。
このようにして、各州はその専門分野を広める必要があります。そうしないと、インドは一般的なものとしてのみ扱われますが、要点はわかりません。各州はまた、他の州との服従を区別するための努力をしています。ITやテクノパークと言っているすべての州にとって、それはおかしいように見えますが、それは意味がありません。
中国の省や市は日本の都道府県や市と姉妹関係を築いています。インドは1つだけですが、20以上が報告されました。それはムンバイと横浜です。私はそのような関係を築くことを提案します。それによってあなたは新たにビジネス関係を築くことができます。中国の場合はかなり良いです。毎年、双方が事業の代表団を派遣し、そのような交換に基づいて、投資の一部が新たに開始されました。そのような努力なしで人々がどのように一緒に会うことができるか。展示会でネームカードを落としても確証にはなりません。友情や相互理解のより緊密な交換が必要になるはずです。
お互いを知ることが最も効果的な救済策であり、その目的のためのあらゆる種類の努力を怠ってはなりません。その意味で、首相の訪問は非常に有意義であり、首相のコミットメントは効果的に実行されなければならない。そして、首相の訪問は実現されなければなりません。帰宅 _

中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。

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漆芸 Urushi (Lacquer)

小倉 敏江
OGURA Toshie
1946広島県に生まれる
1991日本現代工芸美術展 第30回現代工芸記念展
1995京展 京都工芸美術作家協会理事長賞
2000日本現代工芸美術展近畿展 京都府知事賞
2004第50回全関西美術展 第1席
2009日本現代工芸美術展 現代工芸本会員賞
2012日展 特選
1946Born in Hiroshima, Japan
1991Japan Contemporary Arts and Crafts Exhibition, 30th Contemporary Crafts Anniversary Award
1995KYO-TEN Kyoto Kogei Association, Chairman Award
2000Japan Contemporary Arts and Crafts Kansai Exhibition, Kyoto Governor’s Award
2004Won the 1st. place award at the 50th All Kansai Fine-Art Exhibition
2009Japan Contemprary Arts and Crafts Exhibition Contemprary Crafts Main membership Award
2012Won the Special award at NITTEN

2018年07月18日

小倉敏江漆芸展 作品紹介!

小倉敏江漆芸展 作品紹介!

小倉敏江漆芸展は好評開催しています。
海の日を含む3連休は会場がお客様でいっぱいでした。久しぶりに美術館は賑わっています。
小倉敏江氏の展示されている作品を紹介します。


【作品紹介】

〇 小倉敏江 心象

この作品は、美術館入口に近い最初のコーナーに立っています。小倉氏の作品はほとんど赤系統のオブジェ。この作品だけ「黒」なんです。柔らかいゆっくりと感じるフォルムに螺鈿と漆で線文。タイトルが「心象」。柔らかい静かなそれでいて強い意志を表明してるように感じます。
小倉敏江 心象


〇 小倉敏江 双曲

この作品は、躍動感にあふれる曲線の組み合わせでできています。色は小倉氏得意の「朱」です。曲線の面の組み合わせが素敵です。

小倉敏江 双曲


小倉敏江 凛として

この作品を通じて、当館と小倉敏江氏は繋がりました。縁を感じる作品です。私がこの作品に出合ったのが、日本現代工芸美術展の巡回展。
作品のフォルムと色に衝撃を受けました。作者の小倉氏がアトリエを香川県に構えられてるのを知り、またびっくり。「灯台元暗し」、佐々木達郎氏を通じて連絡をしたのが始まりです。

小倉敏江 凛として


〇 小倉敏江 風・未来へ

この作品は初期作品です。最近の作品が立体の組み合わせに対して、くりぬいたような、形です。柔らかさに突起があり、ユーモラスに思えます。

小倉敏江 風・未来へ


【小倉敏江漆芸展】

期間 7月13日(金)~8月12日(日)
開館時間 午前9時~午後5時(最終入場)
休館日 水曜日・木曜日
会場 讃岐漆芸美術館
小倉敏江漆芸展 作品紹介Ⅲ

小倉敏江漆芸展は会期の半分が終わりました。
明日、作品の一部入れ替えを行います。
作家の想いがいっぱい籠ったオブジェをぜひご覧ください


【作品紹介 そのⅢ】

〇 小倉敏江 慈

小倉敏江 慈


〇 小倉敏江 位相

小倉敏江 明日への標



〇小倉敏江 標

小倉敏江 標



〇 小倉敏江 双向

小倉敏江 双向



【小倉敏江漆芸展】

期間 7月13日(金)~8月12日(日)
開館時間 午前9時~午後5時(最終入場)
休館日 水曜日・木曜日
会場 讃岐漆芸美術館
小倉敏江漆芸展 作品紹介Ⅱ

小倉敏江漆芸展は開催して10日。
様々な方々のお越しをいただいています。漆芸とは思えないというご意見が多く伺いますが、漆芸での表現は無限大です。様々なモノが制作され発表されています。その一端が小倉敏江氏の作品です。
会期はあと半分。ぜひ、ご来館いただき、じっくり鑑賞ください。


【作品紹介 そのⅡ】

〇 小倉敏江 気

この作品は、少し明るい朱をしようしています。テーマは「気」。くるりと柔らかいフォルムに謎めいた表面の凸凹。叩きの技法でしょうか。
小倉敏江 気


〇 小倉敏江 位相

この作品は、四角、三悪、長方形等様々な立体を組み合わせています。金網でボディーを製作するには大変な苦労が必要でしょう。強い意志がきりりとした作品全体に響いています。
小倉敏江 位相


〇小倉敏江 蝕

この作品は今回の展示で唯一、ブルーの作品です。赤ベースの作品が中心の小倉敏江氏。その中で、この作品は異色に感じられます。凛々しい堂々とした形は何を訴えているのでしょうか。テーマは「蝕」。

小倉敏江 蝕



〇 小倉敏江 きざし

この作品も小倉作品の中では異色な作品です。赤のボディーに黒で塗られた部分があります。次に続く何かをもとめているのでしょうか。テーマは「きざし」・

小倉敏江 きざし



【小倉敏江漆芸展】

期間 7月13日(金)~8月12日(日)
開館時間 午前9時~午後5時(最終入場)
休館日 水曜日・木曜日
会場 讃岐漆芸美術館
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写真の説明はありません。

# by maiu327 | 2022-09-03 13:24

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

チキンカレー

2007/2/16

サダルバザールにアショク・アンド・アショクと言う立ち食いのカレー屋がある。日印経済委員会の忙しい日程の間を縫って、15日の昼にワダワさんの案内で食べに行った。

サダルバザールの中であるから、当然の設えで、座るところもない。今日は木曜日であったのでチキンカレーとチキンブリヤニの2種である。週に3回チキンとマトンが交互に出るという。

この店の特徴として一切植物油を使わないとのことで、純粋のギヒーでのチキンカレーの煮込みのカレーである。チキンといえば通常バターチキンを頼む人が多いのだが、チキンカレー一本やりの店だから、選択肢はない。かなりの量のギヒーを使っているので冬の間は固まってしますので、食膳にコンロを乗せてそこでもう一度暖めて食べる。此れが、旨い。今まで食べたチキンは何だったろうかと言う味である。味が深い。チキンが煮込まれていて柔らかでチキンの味がする。品格のある味でもある。兎に角止まらない。次から次に手が出てしまう。こういう食べ物が世界の各地のコーナーで食べられていると思うと、ホテルなどの高級レストランは何を目指しているのだろうかと疑問を持ってしまう。チキンカレーで此れだけ複雑と言おうか、高度な味を出せると言う奇跡に遭った。

又食べに行きたいものである。横にベジタリアンの店ももっていてそこのものも取り寄せて食べられる。此れも旨いがチキンがお勧めである。ブリヤニもお勧めである。チャパティは食べ放題であった。

営業時間は13:00~15:00で、夜は18:00~21:00であるが、夜はテイクアウトだけである。

幸せを感じた昼飯であった。
アショク・アンド・アショクの看板である・・
チキンカレー2人前、見ただけで味を思い出しつばとアセが出てくる・・そんなに辛くはないがスパイスが効いているのである。勿論チキンは骨付きである。ドラムスティックも悪くないが、他の部位の骨が絡んでいるところも行けるのである。うますぎる。上にホロホロとかけてあるのはコリアンダーの葉である。
長粒種の見事なインド米で炊かれたブリヤニは、あくまでもふっくらサラサラでいくらでも入る。下に見えるのは食べ放題のタンドリチャパティである。
チャパティを焼く専門職。
タンドールと呼ばれる釜のなかは、コークスであった。
となりで食べていた、シクのおじさん。この世の至福に酔っている呆然とした顔である。
オナーである。純白のインドの民族衣装はカレーを扱っていても一点の汚れもない。彼流の粋の表現であろうか・・
左は共同通信の方、右がワダワさんである。ワダワさんはこの近所の生まれゆえ、此処はいわば縄張りである。この店のことを話題にするインド人はいるが、なかなか来れないのがインド人の上流階級の現実である。
マダンラール

2007/2/20

Madan Lal サダルバザールのお菓子屋さん」

マダンラールさんはEXPO70日本出店した経験があり日本贔屓です。サダルバザールでは、ハルワで有名な店です。

今日は、名物のハルワと、ジュレビーをいただきました。そのジュレビが軽く感じられ、香ばしく、香料の香りも丁度よく今まで食べたジュレビとは一寸格が違いました。

4人で食べてべた褒めした所為か、オーナーの驕りになってしまいました。インドは止められないですね・・
 
店の看板です・・
オーナーです。EXPO70以来、熱狂的日本ファンで神戸の町がとても気に入っている。
伝統的なインド菓子を作っている。
ジュレビを上げているところ。もう40年以上作り続けている・・
何の変哲もないジュレビなのだが、味が違う。先ず、香ばしい、砂糖漬けなのに軽さが有るので食が進む、仄かな香料がなんともいえぬ上品さを醸し出す、お替りをしたくなるのである。
最後の昼飯はクラウンプラザのブッフェ

2007/7/1

今日帰ります、日本へ・・

最後の昼飯は、つい数日前にグランドオープンしたCrowne Plaza(Sector-29, National Highway-8, Gurugaon 122 001, 91-124-4534000)のコーヒーショップのバイキングをいただきました。

綺麗な5スターホテルです。

ここのバイキングの売りは、鉄板焼きとデザートでした。
サラダは普通で可も不可もなし。それでもサラダコーナーには今ニューデリーで何処のブッフェでも定番となってきている、寿司(野菜の巻物)を用意してあったが、如何せんインド米で此れは減点の対象でした。鉄板焼きは、サーモン、白身魚、エビ、チキン、野菜に、焼きそばと揃っていました。特にチキン、えび、マッシュルームが秀逸でした。デザートは大変充実して、西洋菓子、インド菓子ともしっかりしてました。

心置きなくインドを離れることが出来そうです・・

感謝!!

グルガオンに、トライデント、パークプラザ、クラウンプラザと3軒のホテルブッフェが出来たことになり、選択肢が増えました。料金も1000ルピー(2600円)で使い頃です。
Today Gurgaonと頑張ってます・・
ニューデリー市内のせせこましい車寄せとは違いスペースが広く気持ちがよい・・
左からサーモン、エビ、野菜、白身魚、野菜、チキンと並ぶ・・焼加減が絶妙である・・
焼きそばも作ってくれる・・
中央右は流行のチョコレートファウンテンである・・
ケーキ類は多種を食べられるように配慮され、ミニサイズなのがありがたい・・どれも良かった・・全部は試してないが、Y・H両氏と3人で食べた感想である・・
ヤシュワントプレイスのチャイナタウン

2007/9/9

一人の夕食ということで、江上剛さんと食べたワンタンを食べることにして、チャナキヤプリのヤシュワントプレイスのチャイナタウン(China Townという店)へ行った。(V-15, Opp. Chanakya Cinema, Yashwant Place, New Delhi 110 021)

相変わらずの美味いワンタンスープであった。野菜がかなり入っていて、具沢山の感じで、スープにコクがある。それでいたしつっこくないのが絶妙である。75ルピー(200円)は朝飯の10倍であるが・・
結構インド人も食べに来ている。

食後のデザートは、裏のビカネールワラのラスマライ14ルピー(40円)にした。

館長は痛く満足である。
 
インド人が頼むのは圧倒的に焼きそばである・・あとはモモと呼ばれる蒸し餃子饅頭である。
見た目はともかく美味いのがたまらない・・ワンタンはひらひらを楽しむ日本式でなく、肉入り餃子浮かしているが、肉がそんなに固まっている状態ではなく、食べやすい・・
この店は周りの店よりいつも客が多いような気がする・・館長はいつもここである・・
ビカネールワラのラスマライ・・裏切られることのない味である・・
サーガル(SAGAR)

2007/10/8

ディフェンス・コロニーのマーケットに、サーガルというレストランがある。
(18, Defence Colony Market, New Delhi 110 024 電話:24333658, 24333440)

サーガルと言うとどの運転手も、二つ返事で「Yes sir, I know」とくる。でも、サーガルは二つある。隣接して北インド料理のサーガルと南インド料理のサーガルとである。

館長は、南インド料理のサーガルをお勧めする。

今日は、タリーを夕食とした。タリーの意味はお盆である。ステンレスのお盆に、日本流でいえば小鉢が8っつ乗っている。これもステンレス製である。それぞれにそれぞれのものが盛られ、プーリー4枚、パパッドが1枚、それに一椀のインド米がつく。

館長はプーリー2枚を残し、完食した。うまかった。プーリーを2枚残すとバランスが良い健康食となる。

それで、85ルピー+Vat(税金)10.63ルピー+切り上げ0.37=96ルピー(約300円)である。切り捨てではなく、切り上げになるのがインド的である。

夕食は19:00からであるが、スナックはいつでも食べられる様である。
 
左のさらにはパパッド。中央の盆の中心は4枚のプーリー。(館長は2枚残した)ステンレスの小鉢、左からダヒー(味の付けてないヨーグルト)、アチャール(マンゴーの漬物、日本のあちゃらずけの語源)、ライター(ヨーグルトに野菜を刻みこんだ日本でいえばはしやすめ)、サンバ(日本でいえば味噌汁に当たるような軽いさらっとした野菜のカレー)、ラサム(胡椒の聞いたさっぱり味の南インド特有のスープ)、サブジー(野菜のカレー)、野菜のドライカレーと8品がどれも水準以上の味である。右上は、ステンレスのコップに入った水である。館長は平気で飲むが、ミネラルウオーターもある。
スナックを楽しむ夫婦。奥さんの腕に注目。
のっぺり顔のボーイ
7時ちょっと前から、店の入り口で夕べの祈りが始まった。
右隅に祭られているのは、シバの奥方、破壊の象徴でもあるドゥルガ女神である。
右に入り男は、カウンターに額を付け女神に帰命を表している様子である。
中央の主人はマントラ(サンスクリットの経文)を唱えている。
この儀式はさらに線香荷火をつけ、店の各コーナーの神々に線香をささげ15分以上かけて終了した。毎日の夜の部の、無難と繁盛を祈念しての夜の部の始まりである。
Om revolving Restaurant ジャイプール

2007/11/12

ジャイプールの市内に1時間に一回転する展望レストランがある。インド料理、西洋料理、中華料理がサーブされる。市内で一番高い建物と鼻高々で、トップ・オブ・ザ・タウンと称している。インドの14階日本流では15階となる。

料理の質は結構で、一度は話の種によってもよいと館長は思った次第。

Hotel Om Tower
Om Revolving Restaurant
Church Road, M.I. Road, Jaipur 302 001
91-141-2366683~85
info@hotelomtower.com
www.hotelomtower.com
 
:ホテルの入り口である
ラジプートはジャイプールが本場である。
展望の一場面
展望の一場面。右奥の山上の白い城がかの有名なアンバー城である・・
メニューである
ホテルのリフトの中の宣伝である・・

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# by maiu327 | 2022-09-03 11:41

銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

オー!カルカッタ

2008/1/24

館長が2番目においしいと認定したベンガルの海老カレーをデリーで食べるのならこの店であろう。

この店の特徴は、先ずその雰囲気にある。フロアリングのスペース充分な店内は、カルカッタの伝統あるクラブの中に案内された様な錯覚を与える。インドカレーの店特有の喧騒がないのに、シーンと静まっているような暗さもない。

アテンドしてくれるフロアマネージャーは、クラブのわがままな客のリクエストをユーモアあふれるやり取りで対応してくれるかのようである。

次に食べ物であるが、とにかく旨い。文句無しである。

茄子とカリフラワーの焼いたものあたりをスターターにしてもらい、野菜カレーを一品位から始めるのがよいであろう。いずれにしても、こんなに上品でかつ深いなスパイスの使い方があるのかと驚かされる。

メニューのお目当ては、海老のカレーであるが、海老にもいろいろある。館長はどうせのことゆえ、ジャンボプローンを推薦する。小エビから、中くらい、それに今推薦したジャンボプローン、さらにロイブスターが用意されているが、ロブスターは行き過ぎであり、小エビでは、味噌の楽しみがない。プローンは、頭の部分の殻がついた状態がお勧めで、海老の味噌が生かされる。

このジャンボプローンを、ココナッツのホワイト・ソース・カレーと赤いソースのカレーの2種類で頼むとよい。このカレーを食べる時には、ナンやチャパティは注文せずに、サラサラ・フアフアのプレインスティームライスを推薦する。

インド米が海老のカレーを際立たせ、ココナッツ・ミルクがマイルドな味を演出し、海老の味噌がコクを醸し出し、この世の至福である。幸せを感じる時である。

今までかなり食にうるさい人をご案内したが、不満を述べた御仁は皆無であった。

他にもベンガルスタイルの各種の魚のカレーもお勧めと言うが、残念ながらいつも海老にひかれ、館長はいまだ試していない。

夕方は19:00開店で、予算は一人1500ルピー(4500円)位と覚悟しよう。

Oh! Calcutta,
E Block, International Trade Towers, Nehru Place,

要はネルー・プレイスのインターコンティ・ホテルの裏である。
カルカッタの喧騒を絵にした飾り皿が憎い演出である・・
ココナッツミルクにどっぷりつかった海老カレーである・・ココナッ
ツの中に入れて出す演出もなかなかである・・
絶品である・・頭の殻をチュウーチュウーすると、海老味噌が・・
最後に小ぶりなパーンが出される・・すばらしいサービスである・・

パーンを噛むと満腹の胃がスーッとおさまるから不思議である・・
ダクシン

2008/2/26

デリーの南、サケットにシェラトン・ホテルがある。そこの南インドレストランが、ダクシン(ヒンディで南という意味)という。

そこのメニューは、南インド料理である。ケララ、タミルナドなどのインド料理が主流である。

館長は、今日、ひとりで蟹のカレーを食べに行って来た。至福の一時間であった。

サービスもインドでは一流と言えそうで、南インドの料理も掛け値なしで南インドの料理である。

値段が少々張るのは気になるが、たまには良い良いとと館長は満足である。
 
シェラトン・ホテルの2階にダクシンはある。落ち着いた、豪華な雰囲気のレストランである。サーブする食器の上にはっバナナの葉があしらわれているのが、南流・・

日本で言うと突き出しに当たるのか、席に着くとまず出てくる。揚げせんべい3種と、唐辛子をあげたものである。この唐辛子はディープフライしてある所為かあまり辛くなく、塩が効いている感じがする。
チャトニー4種類、ココナッツ・トマト・ミント・カルダモンベースのものであった。
注文を受けるとアパムなどの南インドのパンやスナックを焼く。繊細な感じのコックである。
メニューも豪華であることよ・・
ラサム(Rasam)の登場である。胡椒の辛さの利いた絶品。完食(飲)した・・
野菜のココナッツシ・チュウ(Kai Stew)ココナッツのマイルドなミルクと野菜の甘みを生かしたもの。
蟹のドライカレーである(Nandu Puttu)。これをアパムで軽く包み食するとき、この世の至福である。殻から出した蟹のみを食べる贅沢は・・

左が米の粉を絶妙に焼き蒸しにした、南インド特有のパンで、アパム(Appam)と呼ばれる。
蒸しカスタードをいただいた(Vathalappam)。軽い甘味の上品なデザートである。
香辛料のサンプルが飾られていた・・
ちょっと高めの昼飯であったが、価値はあると館長は判断する・・
The Great Kabab Factory

2008/3/4

オリジナルのインド料理は極めて禁欲的であるとの説がある。スパイスを存分に使ったインド料理が花を開いたのは、回教徒が入ってきた以降と言われる。ムガル朝の宮廷料理の名前が、現在の凝ったインド料理の名前として使われていることを知ると、そうかなぁと思う。

そのムガル料理は、アフガンを通って入ってきたわけで、当然のことながら、カバブ料理やタンドール料理も含む。

クリントン米大統領が5日間に滞在した際に、ITCシェラトンに泊まり、同ホテルのカブールと言うレストランでタンドール料理を堪能した。それ以来、カブールレストランの名刺は上がり、それに伴い値段も急上昇した。結果庶民が食べるところではなくなった。

大体ITC(India Tabaco Corporation)系の5スターデラックスのホテルの食事はうまいが高いと定評がる。ダクシンがそうであり、ダンプクトがそうである。

さて、そこでリーゾナブルな値段で、美味しいタンドール料理を楽しむにはどうしたら良いかとの問題がある。

そこで、一つの解答は、The Great Kabab Factoryを試してほしい。NOIDA(Ansals Fortune Arcade, Sector 18, NOIDA,、Delhi 91-4515882) とグルガオン(Park Plaza hotel,B-Block, Sushant Lok, Phase-I, Gurugaon, Haryana 91-124-4150000)にある。館長は両店を試す機会に恵まれたが、両方ともイケる。

カバブを頼む時に、ついついタンドリチキンを頼みあとはいい加減になってしまうのが通常であるが、ここのセットメニューは驚くほどバラエティに富んでいて、楽しめる。焼き物だけでお腹いっぱいになり、最後のダールとブリヤニのときにはもう頂けないとの満腹感になるのであるが、これがまたブリヤニとダールがうまくてついたが出てしまう。

タンドリ料理の焼き加減が絶妙で、熱いうちにフウフウ言いながら召し上がることをお勧めする。冷めると価値が半減する。また特別に良いエビが有れば追加とすることをお勧めする。

スパイスの使い方が手慣れたもので、深くて神秘的で退屈させない技量である。日本人にはこの真似は難しいかろうと思う。エキゾチックでかつ違和感がないのは、やはり究極のものに近いのであろう。

日曜日の昼に、6名で8080ルピー(24240円一人4040円)はリーゾナブルと言えよう。

インドのレストランでは超一流といえどもそのサービスにはちょっとと首をかしげるものがあるが、ここは完全であった。工場と言うからか、繋ぎを着ててきぱきてきぱき対応している姿は気持ちの良いものである。
 
案内板である・・
つなぎのおにーちゃんはなかなか仕事をこなしている・・
最初のサラダ・・
何か味噌味ではないかと思わせるスパイスの使い方・・
魚のタンドール
ひき肉と言おうか、ペースト状にまですりつぶした羊の肉は、離乳食にもと思わせるものである・・
えびのタンドール焼きである・・絶妙のスパイスである・・
食べかけの鳥である・・左はサフラン入りのチャパティーである
ちくわ状のひき肉のダンドール
ブリヤニが最後に出るが、これが前に出るとこれでお腹いっぱいになりそのあと何も食べられなくなる・・ふんわりさらさらの炊き込みご飯である・・
デザートのクルフィー(インド・アイスクリーム)も見事である・・
Bread Talk

2008/7/22

2000年にシンガポールでオープンして、アジア各地で評判をとって、世界に繁殖しつつある、Bread Talkが、ムンバイに上陸し、ついに、グルガオンにも開店となった。

いわゆる菓子パンが評判の店で、クロワッサンを始めてする、いろいろな種類の菓子パンが楽しめる。

インド在住の日本人の愚痴の一つが、うまいパンがないねーと言うことであったが、もうそれはなくなった。

クロワッサンの味は、日本のそれと変わらない。館長としては、食パンを作ってくれるとありがたいのですが・・

グルガオンのCTC Plazaの地下のスーパーマーケットであるスペンサーの一角に、窯をしつらえ焼き立てを売っているのは、日本のデパ地下を思い起こさせる。ただし、商品は、自分で取るのではなくて、店の女の子に指さしとってもらうシステムは、何ともインド的であった。

価格はホテルに比べて半額以下で、インド人にとっては高いかもしれないが、日本人には値ごろの感じであった。

スペンサーの中は、撮影禁止なので、ろくな写真はないが・・
 
CTC PlazaはMGロードにある・・右下がスペンサーへの入り口である・・
スペンサーには日本食材コーナーもある・・
隠し取りですのでご容赦・・
レジである・・積んである焼き物類もかなり美味しかった・・
焼き林檎を包んである菓子パンで、これもいけた・・
スペンサーの入り口である・・
「さくら」がグルガオンにオープン

2008/12/4

ニューデリーのメトロポリタンホテルの「さくら」が、グルガオンの「さくら」をオープンした。

本店のしつらえよりグルガオン店の趣のほうが落ち着いて感じでくつろげる。

約80席で7席のカウンターですすぃもつまめる。小部屋も3室あり、使いがっても良いようだ。雰囲気が良い。

食べ物の質は、毎晩中村シェフが出張っていて、やはりさくらの水準を落としていない。アルコールのライセンスも正式にとってあり、安心して飲める。

グルガオンはますます住みやすくなってきた様である。
 
「Time Tower」ビルの日本流二階に「さくら」はある。
Time TowerビルはMG Road とNH8のぶつかる手前のオフィスビルでる。
ビルの入口から左に回ると、ビルの入口がある。
さくらの入り口でる。
厨房は清潔で、冷凍、冷蔵設備も、充実している・・
本店のさくらより雰囲気は良いのではないか・・
個室もある
今日の昼は鮨弁当を頂いた・・
シンディの肉屋さん

2008/12/29

お世話になっているワダワさんに年末の挨拶に行くことにし、ついでに昼飯を誘ったところ、下町の政治家マルワさんの案内で。ワダワさんと近所のおじさんと4人で通称「シンディの肉屋さん」と呼ばれるカレー屋に行ことになった。

サダールバザールはマルワさんの地盤で、行くとなれば正装とマルワさんは一度家に入り、5分で黒の縞の服に着かえてきた。政治家の心得と見た。馬子にも衣装か、立派なものである。

件のレストランは、サダールバザールの真っただ中にある。店の名前はなかった。「シンディの肉屋さん」が通称とのこと・・

座るところもなく、立ち食いである。テイクアウトの人が多いようであったが、焼きたてのチャパティで食べるのが本当であろう・・

鶏のレバーのカレーとチャパティを戴いたが、新鮮なレバーが旨く、また来ようという気持ちになった。鶏をマーケットで買うと内臓がないのだが、このような店で利用されていたのを発見して安心した。通常のカレーのレストランではレバーのカレーは置いてない。
今回は食べなかったが、新鮮な羊か山羊の脳のみそ、も用意されていた。

マルワさんはBJPの政治家だが、サダールバザールに、Malwa Syndicateという事務所を構えていて、もめごと悩み事の相談をさばいているという。町行く人や、車がマルワさんに声をかけるのを見るとなかなかの人気と見た。
 
確かに店の名前はない・・左側がレストランである・・
中央の多鍋が、いわゆるルーであろうか。小さな鍋にギーをたっぷり溶かし、レバーを入れて火をとうす。
店の外ではチャパティだ作れれている。うす過ぎず、厚すぎず誠に結構な焼き加減で、満足のいくチャパティであた。
これがレバーカレーと添え物の玉ねぎである。カウンターは大理石である。
右はじが福を着替えてきたマルワさん、中央が近所のおじさんで、左に顔をのぞかせるのが、おなじみのワダワさんである。
壁には創業者の写真が飾られている。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

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太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

 
自転車

2006/5/19

インドの自転車メーカーでは、ヒローサイクルと言う会社が最大手である。これがホンダと組んでヒローホンダと言う会社を興し、今は年間362万台ものオートバイを作 ると言う。

田舎では、未だにヒローサイクルの看板が目立つ。自転車がまだ主流である。一台約2000ルピー(5000円)である。

因みに、インドの自転車は、車輪の直径が28インチ(70センチ)である。日本は、26インチ(65センチ)で、これは股下の長さの違いによるのであろうと館長は愚考する。

「インド博物館」の由来

2006年4月8日開設

小学校のころであったろうか、富士宮の実家の土蔵から博物と言う昔の高校で使っていた教科書を発見した。

そこには、歴史、科学(生物・物理・天文など全ての分野にわたる)、社会、人間に関することが魅力的な写真やイラストともに説かれていた。見聞を広めることが、繋がりを認識することが、大切であることを説いていたようだ。いたく感動した。

今の会社がとかく縦割りの狭い視野での仕事を強要している感があり、又教育もそれを増長するようになっている様に思われる。横との繋がりが社会の要諦であり、生きている証ではないかと思うゆえ、あえて博物館と言う名を付けサイトを立ち上げた次第である。

インドを軸に、硬い硬い仕事の話と、それを進めるに必要な最低限の心情的なインド理解を、館長の独断と偏見を通して悲願するお節介サイトである。

館長の考え方に賛同していただけなくとも結構だが、館長の依って立つところはある程度知っていただけたらと思い、館長の人生の目的の重要な一部でもある「食」も特に取り上げ、又館長の「世迷言」もあえて披瀝した次第である。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

%は石炭から、残りは褐炭、ディーゼル、ガスから得られています。 インドの電力産業の民間部門は国の火力発電の48.5%を生成しますが、州とセンターはそれぞれ26.7%と24.9%を生成します。
その後第2 章で,インドの現在の電気事業体制と電力事情,および直面. している多くの課題について,各々整理する。そして第3 章では,副題に挙げた「グジャラート州モデル ...
32 ページ
デリー、ムンバイ、コルカタなどのインドの主要都市は歴史的に財閥を中心に発展してきたため、独立以前から財閥系の電力会社が電気を供給してきた。1950年の独立後は、 ...
中国とインドで石炭不足が深刻化し、電力供給が不安定に。新型コロナ対応の活動規制の緩和で内需回復が進む一方、①中国・インド両国で豪雨等により ...
2021/10/13 · アップロード元: 株式会社日本総合研究所

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貴重映像】1971 佐藤栄作首相 沖縄返還協定調印 - YouTube
昭和のノーベル賞 非核三原則・沖縄返還などで日本人初の平和賞 佐藤栄作氏(1974年)【映像記録 news archive】 - YouTube
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この写真は、オールグリーンのアンサンブルを着て風とモルディブの素晴らしい景色を楽しんでいるモウニを示しています.  星は澄んだ青い海のそばの木製のドックに立ち、ゴージャスな空を背景にクリックのためにポーズをとった. (Instagram/@imouniroy)
2022 年 4 月 9 日午後 4 時 19 分更新

この写真は、オールグリーンのアンサンブルを着て風とモルディブの素晴らしい景色を楽しんでいるモウニを示しています. 星は澄んだ青い海のそばの木製のドックに立ち、ゴージャスな空を背景にクリックのためにポーズをとった. (Instagram/@imouniroy)

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Mouni の衣装は、フロント ノットのディテールが施されたグリーンのブラウス、急落した V ネックライン、ギャザーを寄せた袖口付きの半袖、上腹部をむき出しにした裾が特徴です。 スターはシルクサテンのトップに、流れるようなロングスカートを合わせた.(Instagram/@imouniroy)
2022 年 4 月 9 日午後 4 時 19 分更新

Mouni の衣装は、フロント ノットのディテールが施されたグリーンのブラウス、急落した V ネックライン、ギャザーを寄せた袖口付きの半袖、上腹部をむき出しにした裾が特徴です。スターはシルクサテンのトップに、流れるようなロングスカートを合わせた.(Instagram/@imouniroy)

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モウニはこのルックで髪の房を開いたままにし、グラマーのために、微妙なスモーキー アイ シャドー、まつ毛に重めのマスカラ、ヌード リップ シェード、チーク チーク、ツヤ肌を選びました。 可憐なゴールドのチェーンがビーチルックを引き締めます。 (Instagram/@imouniroy)
2022 年 4 月 9 日午後 4 時 19 分更新

太陽系は約46億年前、銀河系(天の川銀河)の中心から約26,000光年離れた、オリオン腕の中に位置。

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列聖日: 2016年9月4日
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列福日: 2003年10月19日
列聖決定者: フランシスコ
ja.wikipedia.org からのマザー・テレサ

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没年: 1948年1月30日(78歳没)
没地: インド連邦・ニューデリー
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インドの首相のリスト

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インドの首相は、インド共和国の政府の長です[1] [2]インドの大統領は憲法上、名目上、または儀式上の国家元首であるが[3] [4] [5] [6]実際には、通常、行政権は首相に与えられており、彼らが選んだ閣僚会議。[7] [8] [6]首相は、インドの国会の下院で過半数を占める党によって選出された指導者であり、インド共和国の主要な立法機関であるLokSabhaである[9]首相とその内閣は常にLokSabhaに責任があります。[10] [11]首相は、LokSabhaまたは議会の上院であるRajyaSabhaのメンバーになることができる。首相は優先順位で3番目にランクされています。

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